戦士はゆめをみない。

BL ブカ零
 血の味が口内に広がり、零は殴られたのだと理解した。
 尻餅をついた零の前に立つのは、今さっき「神を信じているか」と問い、そしていきなり拳をふるった張本人だ。
 零は静かに立ちあがる。もしこれが他の誰かなら、無関心に仕事に戻るところだ。でも、そうはしなかった。
 彼――少佐のすぐ目の前まで近づくと、その襟ぐりをつかむようにしながら、強引に引き寄せてキスをした。
 ちらりと見ると、少佐の瞳には、戸惑いが色濃く浮かんでいた。殴り返されると思ったのに、予想が百八十度はずれた。いかにもそんな顔だった。
 その時は零自身、なぜ自分がそんな行動を取ったのか、はっきり理解はしていなかった。
 ただ、少し腹が立っていたように思う。殴られたこと自体に、ではない。
 零は、ほかの多くの人間と分かり合うことはできない。それは機械と人間の相互理解が困難なのと同じことと言えるだろう。根本的に違うのだ。
 それは別にかまわない。今は、“ひとりでも生きていける”し、だとしても、何の問題もない。
 にもかかわらず、なぜだか少佐にだけは、そうあってほしくなかった。ほかの人間と同じ――つまり零と違うものであってほしくなかった。
 だから、こうした。――というのは、零自身、筋が通っていないと分かっている。
 しかしそんなことはどうでもよかった。
 当座の問題は、舌を入れるか、入れないか。
 少佐の耳の後ろから漂う性の匂いに、下半身がぐらついた。
 どうやらおれの身体は、男にもちゃんと反応するようだ。と、そんなことに気づけば、俄然、もっと身体をすり寄せ、深いところまで知りたくなった。
 まず背に手をまわそうか。――そう思った矢先、いきなり少佐のほうから、強く抱き寄せられた。おどろく間もなく、舌が侵入してくる。それに零は反応し、どくんと下腹が脈を打つ。
 このままここで抱かれてもいい、とすら思った。
 その瞬間、傍らでぴしりと何かが軋んだ。おたがい我に返り、距離を取る。音の発生源は、待機中の雪風の電力ケーブルだった。
 少佐は苦笑した。「なるほど。おれと同じだ」
 零は最初、なんのことか分からなかったが、ふと思いつく。「男が好きという意味だとしたら、俺は違う。そうじゃない」
「そういう意味で言ったのではない」少佐は、怪訝げに眉をひそめた。「それに、男が好きではないと言うのなら、これはなんだ」
 即答できなかった。
「一応、言っておくが。わたしだって、男に興味はない」と少佐。
「なら、今のこれは、なんだ」と、零も言い返す。
「“なんだ”とは、なんだ」
「あんたのほうが、積極的だった」
 ブッカー少佐も、言葉を詰まらせる。ややあって、
「……知るか」
「“知るか”? それは、おかしい」
「何も、おかしくはない。……なぜ笑う」
 少佐らしくないぞんざいな答えに、零は思わず笑ってしまう。そのまま、黙って背を向けた。仕事がある。
 後ろから、もういいのか、と問われた。「満足したのというのか、あれで?」
 零は、少し考える。「したと言ったら? それか、していないと言ったら。何か違うのか」
 零の返答に、少佐はフフ、と小さく笑った。
「いや、いずれにせよ、こう訊こう。――今夜の予定は?」


   *



 居住区の一室で、零は裸のまま、ベッドの上にいた。
 さきほどシャワーで汗を流したばかりだが、体のほてりはまだ収まらない。
 この部屋の主である少佐が、シャワー室から出て来、訝しげな顔をして問うた。
「零。何をにやけている」
「思い出していたんだ。初めてあんたと寝た日のことを」
 少佐は冷蔵庫からビールの缶をふたつ取り出して、零の隣に座った。
「おまえが過去を懐かしむなんて、珍しい」
「ふと思い出した。それだけさ。あの日、おれはあんたに、まるで絹ごし豆腐か何かのように扱われたんだ」
「絹ごし豆腐か。それはいい」少佐は苦笑する。「だが、たしかにそうだったかもしれない。お互いに、慣れていなかった」
「そうだ。だが、それが今では、おれはまるで猛獣に食われている気分だ」
「獣とは」少佐は、心外だと言うように首を振る。「それは、わたしの台詞だ。いつも食いちぎられやしないかと、冷や冷やしている。神にも祈らんばかりだ」
 大げさな言いように、零は少し笑う。
 当初は、少佐が自分を殴ったのは、神を信じているからだと思っていた。だから初めてこの部屋に来た時、真っ先に訊いたのは、「これは“神をも畏れぬ所業”というやつではないのか」ということだった。
 零は、缶のタブを開け、ひと口飲む。「あんたが無神論者で、よかった」激しい運動のあとのビールだ。格別に美味い。「クリスチャンなら、こういうこと・・・・・・はできない」
「するやつもいる」
「いるとしたらそいつは、そのたび懺悔するのかな。もし、あんたがそんなことをしているのを見たら、おれは次から、勃つものも勃たなくなる」
「わたしがどうであれ、おまえは気にもしないだろう」
「ああ。そうかもしれない」零は、あっさりと納得する。「あんたが勃ってさえいれば、おれも勃つと思う」
「身も蓋もないことを言うな。どうせおまえが興味があるのは、おれの体だけなんだろう」と少佐は、呆れた声を出す。
「おい、女みたいな拗ねかたはやめてくれ」
「もちろん、ジョークだろう。ちゃんと分かっている」
 立ち上がり少佐は、夜景のちらつく窓辺にたたずむ。その背を見て零は、肩をすくめ苦笑した。
 そういえば初めてこの部屋に来た日も、零はここに座り、少佐はそこに立っていた。
 何か飲むかと言われたが、しかしあの時は、水かココアしかなかった。ビールを用意してくれるようになったのは、零が頻繁にここへ来るようになってからだ。
 その時はお互い、しばらく無言でいた。何を考えている、と直球で問われたので、零も偽ることなく答えた。「上官とこんなことになって、どうしようかと思っている」
「“どうしよう”とは?」
「……そうだな。……任務内容について、だ」
「もし特別扱いを望んでいるなら、期待には添えん」
「逆だ。特別扱いされたくない」
「なら、心配いらない。わたしは、公私混同はしない。これからも、おまえは他の戦士と平等に扱う」
 少佐はきっぱりと言った。だがその直後、彼は思いがけず、呻くようにこう付け添えた。
「……とはいえ、わたしの中では、おまえは以前から、“特別”ではあるが、――」
 その言葉は、今思い出しても、零を嬉しいとしか言いようのない気持ちにさせる。
 だがそうした感情が芽生えるたびに、零は心の奥底へと押しこめた。
 少佐もまた、ふと漏らしたその気もちを口にすることは、以降一度もない。
 零をいかなる形でもひいきすることも、決してなかった。
 零にとって少佐は、唯一の親しい友人、ジャックだ。少佐にとっても、そうだろう。それ以上でもそれ以下でもない。快闊かいかつで明朗な関係。それだけ。
 零はふと、窓辺の拗ねた背中にキスをしたい衝動に駆られた。が、それすら押しとどめ、なかったことにした。
 ビールを空にし、早々に立ちあがる。服を着、ブッカー少佐に明日の任務時間を確認、情感も愛執もなく玄関へ向かう。
 普段は諦念めいた微笑で、何も言わず見送ってくれる少佐だが、今日に限っては、やにわに腕を掴まれた。
 ひっぱられ、射抜かれそうなほどじっと見つめられる。零は、たじろぐ。
 キスをされるか、はたまた再度殴られるかと思った。だが、
「……いや、なんでもない」
 少佐はふっと力を抜いて笑い、零は解放される。
 零に背を向け、少佐は部屋の奥に行ってしまった。



 自室までの閑寂な道をひとり歩きつつ、ふと思う。
 少佐への気持ち。――それはたとえば、零が雪風に対して抱いているものと、似ている。その考えはまだ具体的な形は成していないが――つまり、言葉にしようものなら、気恥ずかしくてたまらなくなりそうな、それだ。
 零はかぶりを振る。ばかなことを考えたものだ。
 いつも少佐と会ったあとは、まるで夢の続きにいるかのような、非現実的な感覚を引きずる。
 歩きながら零は、ふいに空が見たくなった。空というより、ブラッディロード。
 あれを見れば、いやでも目が覚めるだろう。
 さっそく方向転換し、人間用の地上行きエレベータへと向かった。
 今日は確か、基地内で設定されている地球時間と同じく、フェアリイ星自体も、現在夜を迎えているはずだった。
 乗り込んで上昇。最後の対爆扉を抜け、それが正しかったことを視認する。
 エレベータから降り、空を見ながら、付近を緩歩かんぽする。
 星のまたたく夜空と、それを剪断する、血色のガスの帯。禍々しく美しいフェアリイの夜だ。
 見たところ穏やかな晴夜だが、もしかしたら今もFAF機が哨戒し、あるいはジャム機が飛び立ったばかりかもしれない。
 フェアリイの空には、戦いと死が常にある。そこを統べるのは、生きるか死ぬか、勝つか負けるか、敵か味方かといった単純な理窟だ。
 だからこそ、単純でいなくてはならない。たくさんのものを持てば、人はおのずと複雑になる。
 それでは、ジャムには勝てない。生きて帰ってくることは、できない。
 だから、ほんのわずかでいいのだ。零という名にふさわしく。ほんのひとしずくで、構わない――
「――雪風さえいれば、いい」
 零は立ち止まり、ほっと息を吐く。
 そう口にして、ようやく夢から覚めた気がした。
 用は済み、地下へ戻ろうときびすを返す。
 その瞬間、背後からそよ風に乗って、若草の香りが立った。
 ふり向けば彼がそこにいて、ブーメランをかかげ、ほほ笑みかけてくれる。一瞬そんなことを考えた自分を、ため息とともにあざ笑う。
 期待もせず振り返った。案の定、そこには誰もいない。
 そこにはただ、深く静かに夜が横たわっているだけだった。
 安堵と、なぜか淡い落胆とを覚え、零はあらためてエレベータへと足を向ける。
 こんなことなら、誘ったりしなければよかった。そんな後悔も、なくはない。だが、あれがなくとも、遅かれ早かれこうなっていただろう。そういう確信もある。だとしたら、同じことだ。
 エレベータに乗りこみ、ボタンを押そうとしたその時、遠く夜空の一点に、ごく小さく光が流れたような気がした。
 遅れて緊急発進スクランブルのサイレンがあたりに響き出す。
 ドアが閉まり、それもすぐに聞こえなくなる。
 ここだけが世界から切り離されたような静寂のなか、はこがゆっくりと降下をはじめる。零は隅に寄り、壁にもたれて目を閉じる。