By More Eloquent Way

BL ブカ零
 ブッカー少佐は、突然オフィスに入ってきた人影に、少し驚いた。
「深井大尉?」
 書類の山積するデスクに腰をかけ、両手に資料、送受話器を肩にあてたまま、呼んでないぞと訝しむ。
 深井大尉は、緩々と部屋の中央まで来ると、さっぱりと答える。「ああ、呼ばれてない」
 少佐は眉根を寄せた。しかし電話口にようやく声が聞こえ、ひとまずそちらを優先する。
「……了解だ、ありがとう。……いや、待て。念のため、もう一度確認を……」
 と、言いかけたところで、いきなり切れた。
 いつのまにか大尉が、親機のフックスイッチを押している。
「何をする」と文句を言うと、
「確認は一度でいい」
 悪びれる様子すらない大尉に、唖然として、口をぱくつかせるしかなかった。
「用件はなんだ、大尉」
 少佐は、しかたなく受話器をおく。
「あれは、なんだ」と零。
「あれとは?」
「“精神面のケア”」
 三か月間の眠りから目覚めた零は、一旦地球に行き、帰ってきた。数日前にFAFに正式復帰するとともに、リハビリを開始している。
 確かエディス・フォス大尉による“精神面のケア”は、今日からだった。
「そんなものは必要ない、か?」
 零の言いそうなことだ。先回りして、言う。
「ああ、そうだ」
 それに、試されている気分だ、と零。
「試されている? どういう意味だ」
 大尉は視線をそらす。答えるつもりはない、の意だろう。
 少佐は鼻息を吐いた。
「とにかく、見てのとおり、わたしは忙しい」
「おれには関係ない」
「ああ、そうだろう。だが、今のままではおまえは、飛べない」
 零はまた口をかんしてしまった。
 少佐はデスクの上に目をやり、次いで電話機を見た。嘆息。すぐ折り返しの電話があると思ったが、こちらも零同様に沈黙している。
 しかたなく椅子につき、別の事務作業を進めることにした。
「どう思う」
「どう、とは」
「あの軍医」
「わたしはまだ彼女に会ったことはない。だが――」
 自分以上に零のことを理解できる人間は居まいという自負が、少佐にはある。その少佐ですら、先日の事態では、思いがけぬ零のナイーブさを知り、戸惑い、どうすることもできなかった。
 だから、これはもう、零自身が対処してゆくしかない問題だ。“精神のケア”でどうにかなるものではない。その点については、零とほぼ同意見だと言えた。
 正直に言えば、多少の不信感はある。
「単に特殊戦として言うなら、“異物”だろう。少なくとも今は」
 こちらのやり方を理解し、水に慣れるまでは。
 ふと零のほうへ戻す。少佐はおや、と思った。
 零の視線、じっとこちらを熟視するその黒目に、不安定な何かが揺れていた。それは言葉にするなら、不審や不安、あるいは、ほのかな怒りのようにも思えた。しかし、その正体は判然しない。それ以上に、少佐は怪訝に思う。果たしてこの男は、こんなにも多様な情感を湛えられる人間だっただろうか。
 そんなことを考えつつ、
「それに、“女性”と言う意味でも、……」
 と言いかけて、その言葉のおかしさに自分で気づく。“女性”なら、前からいる。准将、それにヒカラチア。
「それはいい。ともかく」と打ち消そうとして、しかし、
「それはどういう意味だ、少佐」
 零が食い付いてきた。
「意味はない、忘れろ」
「そんなわけにはいかない」
「そうこだわるべきことではない」
「もし今起きている出来事を、おれが報告書に書くとしたら、あんたの呟きだって、ひとりごとだって、覚えてる限り書き記す。それが後で、何か考えるうえで重要になるかもしれない、ならないかもしれない。いずれにせよ、おれにとっては、大事なことだ」
「フム」思わず納得させられてしまう。「おまえ、零じゃないな?」なかば冗談で言った。「理屈をこねるのは得意じゃないはずだ」
「コピーだとでもいうのか」
「かも知れん」
 半分は、本気だ。
「疑っているのか」
「あくまで可能性の話だ」
 ふむ、と零は一間おいて、
「とにかく、おれは、あんたの意見が聞きたい」
「だから、それを今言おうとしている。おまえが、それを止めている」
「そうじゃない。あんたがこれから言おうとしていることは、どうでもいい。それより、なぜそう思ったんだ。“女性と言う意味でも違う”、と」
「だから、意味はないと言っているだろう」
 零の瞳は、いまだ鋭く少佐を射抜いている。
 獰猛な光だ。
 あのできごと以降、零には、いわば“意志”が宿った。状況にひっそりと身を起き、能動的に何かに働きかけることなく、最小限消極的な選択をするだけだった男が、おのれと、身の回りの存在を、自分の力でコントロールしようとしている。
「おまえは、変わった」
 感嘆のように、くちからこぼれ出た。
「変わったおれは抱けないか?」
「なぜ、そうなる」とっさに、叫ぶようにそう返していた。
 ばかばかしい。だいたい、昨日だって、抱いたのだ。苦々しげに、首を振る。
「だが、変わってしまったおまえとなんか、話したくはない。それに、もしおまえがジャム人間だとしたら、抱きたくもない」
「へえ」
 だがそれはあんたと問題だと、零は言う。「自分がジャムかどうかは、味覚くらいでしか判断しようがないからな。さっき食べたハムバンは美味かったが」
 それもコピーされる寸前の記憶がなんらかの方法で移植されただけで、今の零はコピーかもしれない、本物の零はもう、どこかで殺されているかもしれない、などと言い出せば、きりがない。
「くだらん」言いながら少佐は、思っていた。今この状況について。それを表す適当な語句がある。これはまるで――。
「わたしに、何を言わせたい」
「言わせたいんじゃない。言ってほしいんだよ」と零。
「そういう言葉で逃げるな」
「おれは逃げちゃいない。だが、仮に逃げているとしたって、前のあんたなら見過ごしたはずだ。そういう余裕があった。あんただって、変わった」
 そうかもしれないと少佐は、思う。だが、だからどうだと言うのだ。
 今度の一件では、少佐自身、精神的にも肉体的にも大きな負荷を受けた。それは、事実だ。
“撃墜”なら、理解はできる。受け入れられはせずとも。しかし、今回は違う。“奪われかけた”。訳も分からない状況で。雪風ごと、生きたままで。あまつさえバーガディシュ少尉は行方不明、零は殺されかけており、三か月も目を覚まさない。
 そういう一種強烈な体験が、一個の人格に多少なり影響を与えたとしても、なんら不思議ではないだろう。
 とはいえ零の急激な変化に対し、少佐のそれは、せいぜい連続性のなかの、ゆるやかで微々たるものだ。問題となるほどのことではない。
 三か月間の苦悩と鬱ゆうが思い出され、さしぐみ、苦いものがせり上がる。
 本当に、どれだけ思い煩わされただろう。零のせいではないにせよ。いやだからこそ、誰に、何にその感情を向ければいいのか、分からない。まさに苦しみとしか言いようがなかった。
 頭の中で、無意識に蓄積してきたさまざまな思いが、意識や思考――言葉に変換されてゆくのを、少佐は感じた。それは最終的に、ごく自然に、ひとことに収束される。
 あとはほとんど自動的オートマチックに、それが口からついて出た。
「ひとつ言っておく。わたしは、零、お前を、誰にも渡す気はない」
〈ジャム〉にも、〈雪風〉にも、〈情報軍〉にも、いわんや〈人間の女〉をや。
 言って少佐は、ようやく理解した。
 なぜ自分が、他の女性ふたりとフォス大尉は違うと思ったのか。エディスは他のふたりと違い、職務上、零と一対一で関わり合いになる。仮に患者のほうが嫌だと言い、エディス自身も患者を怖いとか、嫌いだと思ったとしても。命令遵守が絶対のこの軍隊において、近づき、向き合い、向かい合わせることが彼女の任務なのだ。
 だから内心、気にかかっていた。誰も自分のことであれ、無意識のことを断言はできないだろうが、どこかで“奪われるかもしれない”と危惧していた、そういう部分があったかもしれない。
 まず最初に、何を話したのかと零に尋ねたのは、上官としての責務からというだけではなかっただろう。訊かずにはいられなかったのだ。
 よく考えれば、心配するようなことは、何もないのだが。
 どうやら自分も、試されていたらしい。零は当初、『試されている気分だ。』と言った。その真意は定かではないにせよ。少佐はひとり得心していた。零に、ではない。この状況に、試されていた。
 ため息とともに、自嘲する。
 その時、零がくちを開きかけたが、
「こういう時は、きつい酒がほしくなる」
 という少佐のつぶやきが、かき消す形となった。
「なんだ?」何か言いかけたかと少佐は問う。
 零は、それが聞ければ充分だ、と言おうとしたのだったが、それを打ち消して言った。
「やめておけ、少佐。酒でその場をごまかしても、ろくなことにはならん。酒は、一時しのぎにしかならない」
「そんなことは、おまえに言われんでも、分かっている」
「なぁ少佐、ジャック」
 親しみ慣れた名で呼ばれ、少佐は顔をあげた。
「おれたちは、もっと話し合うべきだ。そう思わないか?」
 いつからか、零の様子が変わっている。それにはたと気づいて、
「話し合いは、もう充分だ」
 だが、その手段にもよる、と言う。
「何をどう話すつもりだ」
「とにかく、もっと別の手段で、――端的に言おうか?」
 簡潔なのに越したことはないと、零を促した。
「昨夜のおれは、本物だったか」と零。
「可能性は消えることはない。だが十中八九、本物だろう、とは思った」
「今日のおれはどうだ。もう一回、確かめてみたらいいんじゃないか」
 確認は何度もして損はない。
 零は、けろりと言った。
 少佐は思わず、苦笑する。
「では、そうすることにしよう」
 それから上官の声になって、「本日のわたしの終業時刻は、知っているな? その後一時間以内に、わたしの部屋に来るように。復唱しろ」
「あなたの終業時刻から一時間以内に、あなたの部屋へ向かう。――酒を持って?」
「いや、それは、いらない」
 賢明だ、と言って大尉も、わざとらしくかっちりとした敬礼をおこなう。靴底を鳴らして、回れ右。
 その背を見送ると、思い出したように電話が鳴り出した。デスクの書類も視界に入る。――そうだ、仕事だ。
 と、いつもならうんざりとするところだが、しかし今なら、煩瑣な雑務もはかどりそうだ。それくらい、何だか妙に軽やかな心地だ。
“三十分以内”でもよかったかなと思いつつ、少佐は優然と受話器を取る。