くれなゐ

短編・悪趣味エログロナンセンス注意
 突然にその名を思い出した。松田栄。予科時代の同窓生で、容姿も成績も性格も中庸で目立たなかったその男とは、会話したのも数える程度。大学に入って以降見かけた記憶はない。別へ行ったか、留学でもしたのだろうと思っていた。
 一体なぜ急にその顔が浮かんだのかはわからず、二三日彼について考えたりしていたところ、尋ねてきた後輩から、折よくその松田栄と、その父である松田彰造氏が経営する商社に関する噂を耳にすることとなる。
 先の戦争で成功した松田商事は、いまや世界でも小麦や糖、鉄の貿易で名を馳せる一大企業である。それが昨今財政難に陥っている……などと聞いても、とてもにわかには信じられなかった。先日もフランス向けに更なる販路拡大と大規模な取引にも成功したとの記事も読んだばかりである。
 成金だ下臈徳人だと腐す者は多いが私は正直、その知恵と才覚だけでのしあがった彰造氏の手腕に少なからず欽羨の念をいだいている。また輸入品を主に取り扱う私の仕事とも無関係とは言えぬので、その潮勢は私自身それなりに気にかけていたつもりだった。
 後輩の口ぶりはやけに熱っぽく、ただの飛言と切り捨てがたい何かがあった。頭からでたらめと突っぱねることもできず私は半信半疑で聴いていた。
 もうひとつのうわさは、栄君自身に関してのものだった。数か月前から患い、いまは地方で療養中という。
「そんなに悪いのかね、」
「これも表立っての話ではないですが、養子も検討しているといった風説もあるようですよ。」
 栄君はたしか嫡男だから、太公はさぞ深憂にあることだろう。
「でも栄くんには確か弟がいたはずじゃなかったか、」
「それなんですがね、」
 後輩はさらにおどろくべき話を付け加えて教えてくれた。
「じつは去年、松田の邸に強盗が入ったらしいです。運悪くそれと鉢合わせた弟の智実は、なんと無残にも殺されてしまったとか。」
「ばかな。新聞にだって、そんなのは載っていなかったはずだよ。」
 きっと騒ぎにしたくなかったんでしょうと後輩は冷静だ。「その頃はちょうど、件の取引の真っ最中でしたでしょう。栄さんの体調不良も、それが近因のようですよ。いやはやどうやらこのところ松田にはよくない風が吹いているようだ。」
「呑気に言っている場合かね。……お悔みはどうした?」
「僕は元々松田家と直接関わりあいはないですし、向こうが隠しているのにこちらが知っているというのもどうなんでしょう、」
「ううん、」
 私の供応の申し出を断り、これから美人と会うのだと言ってにやついて帰ってゆく後輩を見送ったのち、私はひとりかんがえた。
 胸騒ぎがする。突然彼について思い出したのも、これは虫の知らせというやつかもしれない。この機を逃せば二度と彼に会えないような気がし、また、なぜだか急に、どうしても栄君に会わなければならないような気もちにもなり、思い立つ日が吉日、筆を執った。
 三週間後に返事が届いた。療養先を知らなかったので実家のほうへ宛てたのだが、無事転送してもらえたようだ。差出人住所は、地方の山村となっていた。
 内容はつづまやかではあったが、「最後に一度会ひ度い。」などという一文に私は、ああやはり先は長くないのだろうと察する。
 結びには、社交辞令的な誘い文があった。
 私はまた、自分でも了解しがたい衝動に突き動かされた。それを鵜呑みにし電報を打つが早いが、その山村へ向かったのだった。


 汽車の中で、少しうたた寝し、夢を見た。
 予科時代の、栄くんとの記憶だった。
 当時は彼の自宅と私がいた寮とは逆方向で、そんな機会もそうなかったはずだが、その日はなぜか一緒に路を歩いていた。
 途中、いくらか話をした。そして何か印象的なことばが投げかけられたと思う、だが、そのことばが思い出せない。



 向こうの駅では、“つづら”と名乗る若い痩身の男が出迎えてくれた。松田家の使用人だと言い、ご丁寧に栄からの委託状まで持っていたので、すぐに信用した。
 彼が運転する自動車に揺られながら、つづらは葛折りのつづらかと訊くと、そうだと答える。下働きにしては、ずいぶん正しい文法で話す。朗らかで頭のよさそうな、気もちのよい青年だった。
 細い山道を一時間以上かけ、どうにかこうにか登ってゆく。
 ぱっと深い翠蓋が開け、現れたのは木造の白い洋館だった。
「これはたいそうな建築だね。」
「ご維新まもないころ異人が避暑向けに設けたそうです。」ほとんど使われずそのままになっていたのを、松田が二年ほど前に買い取ったのだという。
「そんなに古くは見えないね、」
「補修が済んでいますから、すき間風ひとつありません。雨戸や扉も、尋常の倍くらい厚さがあって、簡単には開きませんよ。」
 車を降りると、脇をさっと何か赤いものが通り抜けた。とっさに、赤い着物を着た子供だ、と思った。
 だが辺りを見回してもその姿は見つからない。
 そうしているうち館から小柄な老人が出てきた。これも使用人で、名を南郷茂吉といった。
 案内され中へ入る。内観もまた立派だ。
 まずサロンに通してもらうが、数分経っても栄は出てこない。
「もし具合が悪いんなら、ぜひそのままで、こちらから顔だけ覗かせてもらえればいいけれど、」
「いえもうじきお出でになると思います、」と茂吉。
「ところで、栄くんの弟のことだが、亡くなられたという話を耳に挿んだんだが、それは事実なのかい、」
「それについてはどうか栄さんの前でお話になりませんよう、」
 なぜ、と問う前に栄が現れた。
 その姿に、私は思わずはっとした。
 肩下まで伸びた髪をだらりと下ろし、昔より背は伸びたようだがその分痩せた。顔立ちも少し大人びたが、目は落ちくぼみ、瞳の黒いのと唇の赤みだけやたら際立つ。何よりも、まとう雰囲気が異様だ。何がとは言えぬが、どこか得体の知れぬもの、あるいはまるで死人を見ているようだ、と思った。死体が立っている。
「青木恵三くん、来てくれてありがとう。手紙も、とても嬉しかった。」声音は、とても優しい。
「先日ふと君のことを思い出して、どうしているかと思えば、今は療養しているというから、おどろいた。具合はどうだろう、」
「このところは落ちついて、そう悪くないんだ。それより、疲れただろう。部屋を用意させたから、少し休んで下さい。いくらか泊まっていってくれるんだろう、」
 その時ふいに私は自分の旅行鞄の大きいことに気づく。そういえば当然のようにしばらく宿泊するつもりでいた。今さらながらふと、冷静になった。こんな遠境の病人を突然に見舞うだなんて、どうかしている。無礼にもほどがあるではないか。
 しかしそれもつかの間、なぜだか胸の奥のほうから、(いやこれはどうしても必要なのだ。俺と栄にとって、重要なことなのだ。)という思いがせり上がり、それはたちまち長く抱いてきた信念のように、確固たるものと化す。
「よかった。こんなところにひとりきりでは、気がめいるばかりでね。」と栄がにこりと笑う。「ぜひできるだけ長く居てほしい。時間の許すかぎり。ぜひ、そうしてくれ。」
「実はねそのつもりなんだ。」
「そうだと思った。」
 栄に二階の客室へ案内してもらった。その後ろ姿は一件女のように思えなくもない。だが首の辺りや肩のいかり具合は男のものなので、なんだか妙な感じなのだった。
 広くはないが、美しい洋間だった。どの調度品も洗練され、特に窓脇で艶やかに照るマホガニーの戸付棚が目を引く。
 窓からは夕焼けに染まる山々がよく映えた。「好い眺めだね。」と窓に寄ると、通常の窓鍵とは別に、鍵穴がふたつもあるのを見つけた。
「用心のため鍵を三重にしております。」茂吉がそっと教えてくれた。ふところから鍵束を取り出し、「普段はこれがなければ空きません。」
 強盗に入られたという一件を思い出す。「ふむ確かに、用心するに越したことはないね。」
 一階は栄の寝室に食事室、サロン、厨房と使用人部屋。二階は奥に図書室があるが、それ以外は客間だと教えてもらった。
 風呂を勧められお言葉に甘え、そうしているうち日はとっぷりと暮れる。
 栄とともに夕食を取りながらふと思い出した。「ここへ着いたとき、子供が通り過ぎた気がしたんだが、」
「この館に留まっているのは、僕たちだけだね。」使用人もふたりだけという。料理を作ったのも葛だそうだ。食後のお茶を持ってきた茂吉に栄は加えて訊いた。「今日は御用聞きは?」「ありません。」「じゃやっぱり、きっと君の見間違いだ。この辺には、たまに御用聞きが山を登ってくるけれど、他は誰も寄りつかないんだ。葛の話じゃ、ここは麓では幽霊屋敷だと思われているんだそうだよ、」
「こんな小綺麗な邸が、」
「御用聞きの子も、主人に言われて仕方なく、びくびくしながらやってくるんだね。長居すればたたられると信じているんだそうで、この間も、子が帰ってゆくのを僕は図書室から眺めていたんだけれど、それが振り返って僕に気がついたんだ。かわいそうに、遠目にも分かるくらいに飛び上がって、一目散に逃げていったよ。幽霊に見えなくもないだろう、こんな風ではね、」と長い髪先を弾く。「切らないのかい、」「うんこれはこれでいいんだ。……ところで君、ご結婚されるとか、」
「ええ、でもどうして、」
「どうして。手紙にそう書いてあったから、」
 はて書いたかしらと記憶をたどる。そのあたりのことは、手紙に書いた内容も含め、どうもあいまいだ。
「とにかく、おめでとう。」
「ありがとう。でも肩身が狭いよ。婿入りだからね。」
 大きくはないが羽振りのよい会社を継がせてもらえるのは純粋にありがたいし、すでにそちらで役付きの椅子をもらっている。傍目にはさぞ順風満帆に見えることだろうしかし、
「実はね少しまずい状況なんだ。いや差し迫ってのことではないが、よくはない。決して、よくない。」
 二か月前、自分のオフィスに女給を二人連れ込んでいるところを、運悪く婚約者とその叔母に見つかった。
 向こうの父は「若い男のことだから、」と笑い飛ばしてくれたそうだが、実の両親にはこっぴどく叱られた。
 相手はまだ若い、もしこれが破談になったとしても急げば行き遅れることはないだろう。だが私は少なくとも家に、親の顔に泥を塗ることとなる。それでもなお「心を入れ替えて、」という気もちにもなれぬのだった。あんな清楚なだけの暗い女と結婚し、窮屈な思いをしながら、与えられるまま会社を引き継ぐ――あまりにも味気がなくてぞっとする。
 いっそ全部ぶち壊してしまいたい、そんな気すら湧いてくる。いっそ死んでしまいたいような気もちにもなる。
 それをかいつまんで話すと、「君はまるで意図せず、しかし自ら転落していっているようだね。」栄は笑う。「転落は快楽だからね、危ないほどに快楽だ。」
「情炎のままに死ぬのもよい、」
 食後酒のせいか、少し目のとろけたふうの栄が問う。「時に、君は、あのことを覚えている、」
 汽車で思い出しかけたできごと、それが脳裏をよぎる。「うんでもあの時、君はなんて言ったのだったか、」
「君に頼みごとをしたんだ。」
「悪いが思い出せない。」
「いいんだ、きっと君は思い出す、」
 そこへ葛が、薬の時間だと言って栄を呼びに来た。
「今日はひさびさの御来客で、神経も高ぶってらっしゃるでしょうから、少し早いですがもうお休み下さい。」
「しかし、」
 渋る栄を私も促す。
「葛の言う通りだ。病人を遅くまで起こしておく訳にはいかない。」
 ふたりを見送ったのち、さすがに私も旅の疲れを覚え、早めに休むことにした。
 廊下に出る。
 その時、また窓の外を赤いものがすっと通り過ぎたのを見た。



 翌朝はいくら待っても栄は食卓に現れなかった。具合が悪い、という。部屋を訪ねるのもよしてほしいと茂吉に言われ、やめた。心配だが、何をどうしてやることもできない。食事は先にいただいた。
 その後は手持ちぶさたで二階の図書室を覗かせてもらった。古今東西様々な本が並び、興味は湧いたが、のんびりと読書という気にもなれず、すぐに退室した。
 二階には私が使わせてもらっている一室とこの図書室を含め、五つの扉がある。西側には私の部屋を真ん中に三つ、東には階段を挟んで二つ。図書室は北東。廊下のつきあたりは北側が窓で、南側にはバルコニーがあるようだ。ちょっと出てみてもよいかとドアノブをまわしたが、開かなかった。見ればこれも内側に鍵穴がついており、窓同様にキーがなければ開かないようになっている。
 ふと思い立って、ほかのドアも全て見てみた、案の定同じだった。これも防犯に役に立つのだろうか、万一盗人が侵入しても、高価なものがある部屋の中に入れなければよい、ということなのだろうか。最近付けたのではなく補修以前からあったのだろうか、などあれこれ考えを巡らせていると、
「外へお出でになりますか。」いつのまにか後ろに葛がいた。両手には洗濯物らしき白い布を抱えている。
「いやいいんだ。」
「もしお出でになりたい時は、おっしゃって下さい。」
 それだけ言ってまた階段を降りて行く。
 その細い背中が、妙に印象的だった。



 栄は昼食にも姿を見せない。
 やはり、それほどに悪いのだ。
 栄は昨夜あんな風に言っていたけれど、そんな人間の元に長居するわけにはいかない。とまた少し冷静さを取りもどし、葛か茂吉を探した。
 どちらの姿も見えない。どこかへ出たのだろうか。自動車はあるようだ。遠くへは行っていまい。
 玄関戸に手をかけると、これも他と同じで、鍵がかかっていた。たまたま勝手口が開いているのを見つけ、そちらから失敬した。
 出るとすぐそこに物干し竿があった。その下のたらいには、まだ干されぬままの洗濯物。さっきの葛を思い出し、辺りを見回すが、見当たらない。
 館の裏手は林藪で、けもの道があった。
 辿ってみると、藪はすぐに開け、広々とした川べりに出た。
 茂吉が釣糸を垂らしている。
「ここにいたのか。」
「へえ、」
「葛の姿も見えなかったから、」
「それは申し訳なかったです。葛はきっと栄さんのお部屋でしょう。」
「そうだったか、気づかなんだ。ところでこの辺は何が釣れるんだい、」
 帰りの切符を頼むつもりが、釣りは嫌いじゃないから、それはさておき訊いてしまう。釣れるのは主にアユやカワハギと言った一般的な川魚だそうで、夕餉の一品になるという。魚籠のなかには、すでに二匹の新鮮なイワナが入っていた。
 ご用ではなかったかと水を向けられ、ふと思い出しその旨を話すと、茂吉は少し戸惑ったようすで、「お勤めの都合でしたら、無理を言ってはご迷惑でしょうが、そうでないなら、もう少しだけでいいので泊まってはいただけないでしょうか。私どもはまったくそれで構いませんので、」
「しかし私が非常識だったよ。臥せっているひとのところへ押しかけてしまった。栄の具合にも障りになるだろう。」
「いいえもし今青木様にお帰りになられれば、栄さんは、自分がきちんとお相手できなかったからだ、と思うことでしょう。それできっと余計に、体調を崩してしまう。もう少し居てやっては下さいませんか。退屈でしたら、葛が車でふもとの街をご案内いたします、」
 ほとんど懇願に近い形で、引きとめられ、慌ただしく帰るのもまた悪いかと思い直す。
「ではひとまずもう一晩ようすを見よう。」
「ありがとうございます。栄さんは、夕餉には出られるでしょう。」
 小さいのが続けて釣れたので、茂吉は釣具の一式を畳んだ。邸へ戻る途中、
「栄の体調のよくないのは、弟君が亡くなってからだと聞いたけれど、」
 切り出すと、ほんの一瞬茂吉はぎくりとした風で、おやと思った。
「ええ、ええそうです。……どなたが言っていましたか、」
「はて誰だったかな。後藤、いや坂巻……、とにかく、後輩からだったと思う。伝え聞きなので定かじゃないということだったが。」
 なぜだか聞いたことははっきり覚えているのに、その顔と名前がまるで思い出せない。
 茂吉は言いづらそうに苦い顔で、「実は栄さんは、弟の智実さんのことは、もう覚えてらっしゃらないのです。」
「どういうことだ、」
「それだけおつらいことだったんでしょう。」
「だから栄に弟の話をしてはならないのだね。ううん。だけどいつまでも忘れたままという訳にはいかないだろう。男なら、つらいことにも向き合わなくちゃいけないと思うよ。僕が話してあげようか、」
「いえそれは……、折を見て……、」
 と話している間に再び藪が開ける。さっきの洗濯物が干されていた。白いシーツだが、中央付近に橙色の染みが落ち切らず残っているのが目に入る。
「おや、これは血、」
「いいえこれは……、違います、古いもので、……」とさっきから歯切れの悪い茂吉がまた言いにくそうにしたので、「まあ答えたくないならよい。」「すみません、」ぺこぺこと頭を下げる。
 裏口にはまた鍵がかけられた。魚の下処理をすると言って茂吉は厨房に向かった。




 さてどうしようかしらと思い、気まぐれに廊下の奥へゆくと、右の洋扉がかすかに振動している。中から誰かが叩いているようだ。耳を澄ますと、
「おうい、だれかいないのか、」栄の声だった。「頼む開けておくれ、死んでしまう、」尋常ではないようすだ。「ここには何かいるんだ、得体の知れないものが。始終睨まれている、俺はそいつに恨まれている、殺されてしまう、」
「栄、どうしたんだ、」
 扉は鍵がかかっていて、中からも開けられないらしい。
「息ができない、助けてくれそいつが迫ってくる、」
「ちょっと待ってくれ。今開けてあげよう、」
 そこへ葛がちょうどよく飛んで来る。手には鍵束、もう片方には薬箱らしきものを下げている。「どうして、薬はさっき……、」とひとりごちながら迷わず鍵を選んで、開けた。
 倒れ込むように廊下へ出ようとする栄を、葛が長い腕でからめ取って中へ押し戻す。「だめですよ、」
 ほとんど無理に栄をベッドにおいやる。
 栄の寝室だろうか。冷たい無地の壁紙とカーテン。あるのは寝台と小さな文机だけだが、それでも圧迫感を覚えるくらい小さな部屋だった。客間にくらべあまりにも質素だ。
 と内装に気を取られている間にベッドの上は何やら物騒な様相を呈し始める。
 わあわあとよく分からないことをわめく栄を、力づくで抑えて葛は、「またそんなに言うなら、縛りあげて地下蔵へ放り込みますよ。」
「やめてくれ、あすこは怖い。誰かがいる、そいつに囚われて食われてしまう、」
「すみません、その箱を開けていただけませんか、」と葛が私のほうを見た。
「しかし、」
「これは発作です、いつものことなんです、さあ早く。でないとこの人は、何をするかわからない、」
 急き立てられて慌てて箱を開ける。中には小さな瓶が四つと、大きな注射器がひとつ横たわっている。
「その小瓶を……、いえいいです、私がやりますから、代わっていただけますか、」
 栄は、いやだ、いやだとしくしく泣きはじめる、悲壮に満ちたその顔がどうにも可哀想になってくる。それでも葛に代わり、ばたばたと暴れるのを押さえつけていると、そのうちその着物が崩れてゆく。目に入ったのは、腹部から腰のあたりにかけて、茶色いひきつりだった。やけどの跡だろうか。思わずぎょっとした。
 注射器を準備した葛が、栄の袖をまくりあげる。するとこちらも、着物で隠れていた部分に、角棒で焼いたようなやけどの跡がいくつか見えた。
 多分、どれもそう古いものではない。
 葛が引きつりの間の、まだ柔そうなところに、躊躇なく針を刺す。
「君がやるのか、大丈夫か、」と不安になって問うと、「ちゃんと医者から教授されたものですからご安心を。」さっきからそうだが、彼はずいぶん平然としたものだ。
 たちまち栄の体から力が抜けてゆく。にわかに落ちつき、そのまま昏蒙としてしまう。
「さっき、何かがいると栄は言っていたが、」
「この部屋のどこに何がいるって言うんです、」再び外から鍵をかけながら、葛は冷たいほどの声音で言い捨てる。「いえ本当に何か居るのかもしれませんが……」もごもごしながら付け足した。「これが栄さんのご病気です。何もないところを見て何か居ると仰る。誰も何も言わないのに、声が聞こえると言う。ある医者は神経衰弱だと言い、神職者は狐憑きだと言いました。旦那様は幾人もの医者や祈祷師に見せましたが、根本的な治療には至りません。」
「それでは――頭のおかしいのみたいじゃないか。」
「おかしいんですよ。だから閉じ込めている、……座敷牢よりはずっといいでしょう。」
 葛はうんざりとした、あるいは疲れた様子で、食事の支度があると言って行ってしまった。




 深更、うなされて目が覚めた。子供の夢を見ていた気がする。赤い着物を着ていた。
 水をもらいに階下へ降りる。厨房と隣り合ったサロンから光が漏れているのを見つけ、覗くと、葛がソファに座り本を読んでいた。私の姿を認めると、慌ててそれを閉じ立ち上がる。「いかがなさいましたか。」
「水をもらおうと……、その本はお前の、」
「いえ図書室から、ですが栄さんと旦那様には許可はいただいています、」
「じゃいいや。何を読んでいたんだ、」
「いえその……、お水でしたね。今お持ちします、」
 隠すようにして置いていった本を、葛が行ったのを見計らって手に取る。独語で書かれた毒物学の本だった。
 下働きの者など、せいぜい小学卒業がほとんどだろうに、彼は独語が読めるのだろうか。
 ぱらぱらと中を見る。開き癖のあるページがあった。そこにあった見出しに、また目を見張る。――Morphin
 そこに葛が戻ってきた。
「おや早かったね。……お前はドイツ語が読めるのか、」
「いえ読めません、……ただ眺めていただけで、」
「モルヒネ……さっきの薬箱にもその瓶が入っていたね、」
「栄さんのお薬です。脳の病気にはいいのだと、お医者の先生がおっしゃってました。」
「これで栄を殺すつもりかい、」
 そこには成分、効能に加え、致死量まで記載されてある。
「まさか、間違いがあってはいけないと思って……、」
「でもお前はドイツ語は読めないんだろう。」
 数秒間だまりこくったあと、観念したように言った。「以前ドイツ人の商人の店で働いていたので、多少は。……でも、専門的なことばは、分かりません。」
「でもまあ、数字が読めるんなら、殺そうと思えば殺せるね。」
「何の得もありませんよ、」
 疑われたと思ったのだろう、あからさまに不機嫌な顔を見せる。
「そうだね。ちょっと、ミステリーごっこだ、」
「ミステリーといえば、」はたと思い出したようにこちらに寄ってきて、「ちょっとお伺いしたいんですが、」
「何、」
「青木様はご存知でしょうか、松田家には栄さん以外にも御子息がいらしたという話、」
「それを殺すつもりかい、……いや冗談だ。弟君がいた。茂吉には、栄のまえで言っちゃいけないと口止めをされたがね。半年前に強盗に襲われて死んだと……。それを知らないということは、お前が働きだしたのは数か月前、」
「いえそれはおかしいです。私が働きだしたのは三年、じき四年になります。でもそんな話は聞いたことがないんです、」
「じゃどういうことだ、」
「私にもわかりません。弟御がいらしたようなことをちら、と聞いたもので。ですがその男に問い詰めても、『口をすべらせた、』と言って、教えてくれない。ほかのどの使用人に訊いても、そうです。そのうち『そんなことを訊きまわっていると暇を出されるよ。』と脅かされました。それが私は、妙に気にかかったもので、」
「ふうん、じゃ智実はいつ死んだのだ、」私はひとりごちる。「それに栄がおかしくなったのは、」
「私が来たときには、まだ松田の本邸でしたが、もうすでに。……とにかく、そういう方がいらしたと分かれば、私は納得がいきました。お引きとめしてごめんなさい、」
 と室を出ようとするのをこちらが引きとめる。「お待ちなさい栄のことだが、あのやけどはなんだったんだ、」
「あれは栄さんが本邸にいらした頃、ご自分でやったものです。二年くらい前だったかな、暖炉で熱した鉄棒をあてるばかりでなく、最後には自分に火をつけようとなさった。私も駆けつけましたが、栄さんは『なぜ誰も僕を罰しない、』とわめいておいででした。後で訊いても、なんでそんなことを言ったのか、そんなことをなさろうとしたのか分からない、覚えていないと仰る、」
「一体栄に何があったんだ、」
「さあ、……原因があるのかどうかも、」
「でも治る見込みはあるんだろう、」さっき夕餉に出てきた栄は、至って平常の様子だった。すっかりたたらを踏んだ思いだった。「だから彰造氏はこんな立派な静養場所を設けたのだろう、」
「どうですかね、」と葛はまた、さっき栄を閉じ込めた時と同じように、どこか侮蔑するようなまなざしになって、「似た症状で脳病院に入院しているひとの最期は、壮絶なものだそうです。自分で内臓を引きずり出し、皮を剥ぎ、目をえぐり。そんな風に死なれたら、松田の風評に少なからず傷がつきます。現に栄さんは自分で自分に火をつけようとしたわけですし……、火を、ですよ、……信じられない。……ですがまあここでなら、どんな死に方をされようとも大抵は『病死』で片がつきますから。」
 言ってにぃと笑ったその顔が、どこか狐狸の類を思わせ、ぞっとした。
 にべもしゃしゃりもない言い様にあ然としていると、
「すみませんが私はそろそろ、」
「ああお休み、行っていいよ。」
「私どもは二つ隣の使用人部屋におりますので、何かありましたら。では、お休みなさい。」
 本は持ち、慇懃に礼をして行った。
「『どんな死に方』ってね……、」私はソファにうずもれて、ううんと呻る。相手が病人とはいえ、あまりにも不遜ではないか。だが一介の客でしかない私が考えても仕方のないことでもある。私もそろそろ戻ろうと立ち上がったその時、コツン、と頭頂に何かが当たった。床を見ると、変哲のない小石がころがっている。しかし天井は穴もなく、石が落ちてくるようなものではない。窓は前述の通り三重の鍵でがっちりと閉まっている。
 狐につままれた気分で、再び二階に上がった。


 今度は穏やかに眠ったが、また夢は見た。汽車で想起した栄との思い出と同じものだったが、それより少し詳細がはっきりした。
 雨上がりだった。町はずれのその路はほとんどあぜで、歩いている私たちのまえには大きな蛙がいた。
 私はその手足をもいで、そこに建っていた小屋の壁に投げつけて殺した。
 そして栄はたしか、傍でじいっとそれを見つめていたのだ。


 翌朝はまたすっかり具合の戻った様子の栄に、昨夜の小石の話をした。
 それは天狗の仕業だと言って笑った。「この辺りには、そういう伝承があるそうだよ。」
 それはたとえば狐や妖怪みたようなものかと問う。
「うん。そういえば葛の実家のほうでは、犬神というのもいるらしい、非科学的だがね……。そういう話、僕は好きだ。ほら山路の途中に古い祠があっただろう。」
 と栄は言うが、思い出せない。
「もう枝葉に埋もれてしまったかな。とにかく、あれは稲荷神だったけれど、ふしぎな力を操る、人ならざる者という意味では、いかな神も天狗も、同じだろう。」
「罰当たりなことをした覚えはないけれどね。」
「婚約中のお嬢さんには、どうだ。向こうは君を好く思っていて、だからこそ恨めしく思う。情が憎さに変わるんだね。」
「そして丑の刻参り。おもしろいね。それで、そのあとは、」
「君は死に、彼女は鬼となって、永遠に苦しみのなかで生きながらえることになるのさ。人を呪わば、というやつ。」
「詳しいね。君もそういうことを祈ったことがあるのかい、」
「あるよ、」
「へえ、意外だね。で、どうなった、相手は、」
「生きている。今もぴんぴんしている。」
「どうやら、君も鬼にはなっていないようだし、」
「それはどうだろう、」
 と肩をすくめる。それから急にまじめな顔つきになり、言った。
「ねえ青木君、俺をここから連れ出してくれ。」
 私の腕を掴み、恐らく茂吉らがいるであろう厨房のほうに気をやりながら、低い声で続ける。
「頭がおかしくなりそうなんだ、ほんとうに……。毎日、毎日、何の薬を打たれているのだか、分かったものじゃない。余計に悪くなってる気すらするよ。信じてはくれないかもしれないけれど――茂吉も葛も、俺の看病のためにいるんじゃないよ、見張っているんだ。俺がこの屋敷から逃げ出さないよう、言い付けられて――特に葛、あれは狐だよ。」
「狐、」
「口では俺のことが好きだと言う、だからここでの仕事に手を挙げたんだ。でも本当はどうだか分からない。それに、君も知っているだろう、この家で俺が行き来できる場所は全て、窓にも扉にも鍵がかかっている。それこそ、異常だ。そう思わないか、」
「それは、」
「俺の安全のためだというがね、意味が分からない、子供じゃないんだ。俺はここでは、窓ひとつ自由に開けることができない。その権利がない。ここはけっきょく、表面を繕ってはいるが、実質ただの牢獄なんだ。座敷牢と一緒だ。ねえ俺はそんなに頭がおかしいか、」
 ぎんと私を見つめ訴えかけるその目には、じわじわ涙が浮いてくる。
 私は困惑しながら、「だけどね俺との約束はどうなる、」
「それが約束を違うことになるとは思わない。君こそ、こんなところで、どうしてその約束を果たしてくれるというんだ。それができるというのか。君が本気でそれを果たしてくれるつもりなら、それこそ、ここでは不都合じゃないのか、」
 それもそうかもしれない、と思った。涙目の栄はとても可哀想で、無性に慰めてやりたくなる。そっと口づける。
「分かった。きっと連れ出そう。」



 その後すぐに葛が来、栄は再び部屋に戻された。
 私はなかば濛々としてひとり本を読み時を過ごす。ここはまるで時間の進み方が街衢がいくとは異なっているようだ。早いか遅いかは分からないけれども。退屈はさほど感じない。
 午后には葛にバルコニーに出たいと頼んだ。そそくさと飛んできた彼がふところから鍵を出す。その拍子に、銀の何かが転がり落ちた。
 小さなロケット・ペンダントだった。
 私の足元で停止したそれは、蓋が開いてしまっていて、拾い上げると同時に忍ばせてあるものが目に入る。写真だった。
「すみません、ありがとうございます。」
「それはお前、」
「いえ弟です、抱いているのは母です。」
「ふうん、」
 綺麗な身なりの女性が、赤子を抱いたものだった。
 去ろうとする葛を引き留めた。
 天気は好晴、清輝をはじく白いバルコニーの手すりにもたれる。「少し話をしよう。」
 怪訝そうに眉をひそめて葛も出てくる。「話とは、」
「お前は一体何者だろう。どうやら莫迦ではなさそうだし、今の写真も、そうだ。単に貧しい家の出ではないね。どうして下働きに出ることになったの、」
「どうしてもこうしても、私は次男ですし……その写真の母も、いつもそんなきれいな恰好していたわけではありません。つまり別に裕福な出というのでもないです。」
「二人は生きておられる、」
「母はこの後すぐ他界しました。弟は生きています。これがなかなか出来がいいので、できるだけ学校に行かせてやりたいと……。そんなに下郎の出自が気になりますか、」
「気になるね。」と私はその着物の袖をくん、と引く。「栄のことが好きなのか、」
「好きですよ、まともな時は。穏やかで理知的な口調で、卑屈でもなく、人を見下すふうでもない。とても成金の息子とは思えない。だからこそ頭のおかしい時のあの人を見るのがつらい。だから薬は絶やしちゃいけないし、外にほいほい出すわけにもいかないんです、刺激になるから。」
 どこか栄を見下す様子だった昨日とは一転、そう言う彼は真摯に栄を思っているのが見て取れた。――分裂している、と私は思った。
 そんな私を葛は引きつった卑しい笑みで見る。「あなたはお嫌いですね。私のことも、栄さんのことも。」
「どうしてそう思う、」
「さあ。勘でしょうか。」
「俺はお前がついている嘘が、好かない。」
「嘘なんてついておりません。」と、私の手を払いのけ行ってしまった。


 夕方栄が会いたがっているとのことで茂吉が呼びに来た。
 彼の部屋では、扉に背を向け寝台に腰かける栄。『安全のため』と言って茂吉は、外から鍵をかけることをあらかじめ知らせ外へ出た。
 ぼんやりと床を見つめている栄の横に、静かに腰かける。声をかけても反応がない。黙りこんだまま、肩にもたれてきた。
 ふと、脳裏にあらぬ考えが浮かぶ。その着物のあわせから、ほんのわずかに覗く白い胸。たとえば、そこにもやはり、あのようなやけどの跡があるのだろうか。
 気になって剥いでみると、そこは綺麗だった。せいぜい肋骨の下やわき腹に薄く古い痣や瘢痕が見えるくらいだ。ついでにうなじのほうも見た。そちらも無傷。「ふむ、」
「僕のだったんだ、」
 急に栄が口を開いたので、びっくりして体を離す。
「なんだい、」
「あの着物……あれはね、ほんとうは僕のだったんだよ。」
 そう言って栄は、私の胸に顔をうずめる。
 しくしくしくしく泣き始める。



 深更、再び急に目が覚める。
 今しがたの夢には、子供ではなく、代わりに真っ赤な女物の着物をまとった栄が出てきた。
 あたりは鉄紺、だが闇ではない。
 帯がほどけ、白い肌が覗き、着物が落ちる。あっと思っていると、赤から出てきたのは、一匹の閑雅な白狐だった。
 化かされたと分かる。
 そこで夢は終わった。
 部屋がひどく蒸す。いやな汗を掻いている。窓を開けようとしたが、開かなかった。鍵穴のほうも、てっきり解錠してくれていると思っていたが、これでは、茂吉らが持っているキーがないと開けられない。
 とまれ部屋を出ようとドアを開ける。すると目のまえを小さい赤いものが駆け抜けた。
 やはり子供だととっさに思う。今度は何か、確信に近い。
 いたずらに入りこんだのだろうか。
『こんな夜中に』『どこから』といった疑問は、浮かびはしたものの、すぐに雲散した。
 廊下へ出て左見右見する。
 見当たらない。
 階下へ行ったのだと判断し、それを追う。
 どこからかパンパンと弾くような音が聞こえてきた。奥――栄の部屋のほうだ。
 何の音だろう、子供が何か悪さしているのだろうか。
 先に茂吉らを呼ぶべきかと思いつつ、妙な好奇心に急き立てられ、そのまま真っすぐ突き進んでしまう。
 栄の部屋のドアが、ほんの少しだけ開いている。軽く押し、まず認めたのは、葛の背姿だった。その奥の寝台にも人がいる。当然栄だろう。だが、どうも様子が変だ。よく見れば、寝台の上で、つっぷすような体勢を取っている。膝を折った状態で顔は敷布に伏せ、両腕は揃って頭板に掛かっている。
 着物は着ていなかった。
 宵闇のなかで白く浮き上がる背は、なぜか朱に染まっている。
 葛がやおらに右腕を振り上げた。振り下ろす。バシンと鋭い音が響いた。
 いま気づいたが、その手には、細い棒が握られている。
 それをいく度となく、葛は躊躇うことなく栄の背に振り下ろした。
 私は少しの間、その光景を前に呆然と立ち尽くしてしまっていたが、
「何をしている、」
 どうにか力をふりしぼって体を動かし、葛を止めた。
 葛は驚き目を丸くして、「どうして、ドアはちゃんと閉めたはずです。」
「開いていた。それより、なんてことをしているんだ。」
 栄は両手首を縛り上げられ、さるぐつわまで嵌められている。
 どういうことだと葛に食ってかかる私を止めたのは、いつの間にやらそこにいた茂吉だった。
「旦那様も栄さんご本人も、了承のうえです。」
「どういうことだ、」
「旦那様は医者とは別に、高名な祈祷師にもお願いして栄さんの具合を見てもらったのです。これは憑き物を落すのに必要だとのことで、」
「ばかな。憑き物など。」
 茂吉は私を無視して栄の緊縛を解く。
 おもむろに身を起こした栄の目は暗く凍てついていた。
「いいんだ青木、これは俺の望みでもある、俺は罰を受けなきゃならない、」
「罰、なんの、」
「それにもし俺のなかに狐か、何か悪いものがいるのなら追い出さなきゃならないだろう。」
「ナンセンスだ。」
「そして悪いものがいる、というそれ自体が俺の罰でもある。呪いというのは失敗すると自分に降りかかってくると言うだろ、あれだよ。」
「そんなことはどうでもいいが、これじゃあ約束が違う、」
 ひとり声を荒げる私を、三者は冷たい目で見つめる。
「続けてもいいですかね、」と葛。「今晩はあと十七回打ってから湯をかけ、また冷水を浴びせなきゃならない。旦那様からのご命ですから。」
「だったら、」と言いかけて私ははっと口をつぐむ。妙な沈黙が流れる。
「分かっていただけましたらご退室願えますか、」
 誰も私が留まることを望んではいなかった。無言の圧力に押し出され部屋を後にした。
 一緒に出てきた茂吉は、私に白湯を用意してくれ、窓の鍵も開けてくれた。
 釈然としない気持で茂吉を見送り、ドアを閉めようとした時、また視界の端に赤いものが横ぎるのを感ずる。そういえば、子供だ。すっかり忘れていた。
 今度は捕まえてやろうとそのほうへ向かい、気づく。今それが通り過ぎたのは、廊下の北側のつきあたり、たぶんその窓の向こうだ。
 バルコニーのある側ではない。
 鍵のかかったその窓から、外を覗いてみる。右下方に玄関ポーチが見えるが、真下には足場となりそうなものは何もない。
 初めて、背中からいやな汗がどっと吹き出した。



 翌朝、朝食後のサロンでは、目の下に深いクマの消えない私を栄はしげしげ眺める。同情するように苦笑した。
「君はやはり、ここに来るべきじゃなかったのかもしれないね。」
「どういう意味、」
「約束は、もういいよ。」
「そんなものはもうとうに忘れてしまったよ。」
 ぐったりする私の顔を、栄はソファを降り、両の手で包む。まじまじと私を見つめ、「ほらつかれた目をしている。」
「うんそうだね、すっかり疲れた。」昨夜の一件で。
「うん、つかれている。――憑りつかれている。」
「やめてくれ、」ゾッとして思わず払いのけ、立ち上がる。
 サイドテーブルの上の紅茶が、こぼれた。
 栄は飄々と続ける。「きっとね噂は本当だったんだ。この家は幽霊屋敷だ。長居すればたたられる。この邸だけじゃない。たぶん、松田という家全体だ。父も、俺も、弟も、みんな何かに憑かれて――憑き物筋というのかな。血が汚れているのさ。そしてそういうものの近くにあると、それ以外の何も、誰も、みな呪われてしまう。」
「ばかばかしい。」
「でも君はね本来『それ以外』ではない。君も俺と同じなんだ。元々、汚れている。君の両親、叔父叔母、祖父母、祖先がしてきた悪行がね巡り巡って、どれだけ金を生もうとも、そのひとびとに真の幸福を享受することを許さない。――手を、」
 紅茶に濡れた私の手を手巾で拭いてくれる。
 その手頸に、昨夜の縛り跡が見えた。
 甲には、ぷくりと浮く青く太い血管。
 ほかに目立つ傷痕はない。
 その血管は、私の手を拭うたび、たとえばイヴを陥落した蛇が妖しく誘うがごとくうごめく。
 これに針を指したら、きっと、小さな赤い珠が生まれるのだ。その時栄は一体どんな顔をするだろう。そっと眉をひそめ、痛がるのだろうか。
 しかし彼は、自分で火をつけるくらいなのだから、もしかしたらあまり痛みを感じないのではないか。
 だとしても、さるぐつわをあめて身動きひとつできなくしてしまえば、それはもはや人形と同じだろう。血を流す人形、脈打つそれ。いやそもそも、緊縛などせずとも、痛がってわめいたとしても、人形は人形である。本気で拒み、嫌がらぬかぎりは。
 もし本気で拒み、嫌がったら、それこそ、手足をもいで舌を抜いてしまわなければならない。だがそれだと大手術になるし、どうにも美しいとは思えない。それで美しいのは、絵のなかだけの話だ。現実には、汚らわしい芋虫としか思えぬのがせいぜいだろう。
 だがそうはなるまい。なぜなら、彼は、自分から約束したのだ。
 それに、できるだけ多くの部分を切り刻みたかった。そのためにも手足は残しておかなければならない。
 また痛がることと嫌がることは、同義ではない。
 痛みは、必要である。そしてそのためには指も爪も、皮ふも、骨も必要だ。
 舌もやはり残しておくべきだろう、まっとうな話ができなくてはだめだ。葛が発した言葉を思い出す、『穏やかで理知的な口調、』なるほど確かにそれが栄の最たる引力である。
 また私を様々な形で労わり、慰めてくれる必要もあるのだから、やはりそれは排除してしまうべきではない。
 今度は私が栄の頬を両手で包んだ。
 その口のなかが見たかった。口のなかに剣山でも放り込んでから殴れば、そこは真っ赤な池で溢れるだろうか、あの着物のような色が、ぶくぶくと……。  舌は引きずり出し、針か釘でも刺してみたい、それで喋れなくなってしまうことはないだろう。
 彼は舌を出して泣くだろうか、犬のように。痛みと苦しみに泣き疲れ、ぐったりしている様も見たい。痛みに屈服するのではなく、もっと感覚的なものによって組み伏せられた姿だ。体を覆う傷は、結局、その証となるのである。
 ああ手足の変な風に曲がり、体じゅう引きつりだらけの彼が、きらきらと目を輝かせて私を見る。そして魅力的にこの国の展望や古代世界、哲学、芸術について語るのだ。
「この指は、どうしたの、」
 にわかに、栄が私の手を取り、問うた。わずかに歪んだ中指をひとつつまんで、弄ぶ。
「昔ひねって、戻らなくなってしまった。」
「そう。綺麗だね、……」
 そこへ茂吉が飛び入ってくる。「お話ちゅうすみません、」随分慌てた様子だ。
 一枚の電報を渡された栄も、それを見て血相を変えた。「大変じゃないか、」
「どうした、」
 栄がそれを見せてくれる。
――マキ フシヤウ スグカエレ
「まき、誰だ、」
「私の妻でございます。」と茂吉。「本宅のほうで働かせてもらっておりました。」
「負傷……、わざわざこんな電報を送るからには、かなりひどいのだろうね。」
「ここには電話がないから、まずは山を下り確認しておいで。車、いや走ったほうが早いかな。葛に行かせよう。やはり焦眉のこととなれば切符も手配してくるように。」
 戻って来た葛によるとやはり容態は相当切迫しているらしい。なんでも本宅で掃除していたまきの頭上で、急に神棚の底板が落ち、まきの頭を割ったのだそうだ。
 茂吉は何度も申し訳なさそうに頭を下げ、晩前にひとり山を下りていった。
 栄はすっかりふさいでしまった。「僕のせいだね。」
 そんなはずはないという私の言葉には耳もかさず自ら部屋にこもってしまう。
 夕食は、もはや珍しくもなくひとりきりで済ませた。
 茂吉は、なるべく早く戻るつもりだが、できなければ代わりをよこすようお願いする、何かあればすぐ手伝いに来てもらえるよう町でも頼んでおく云々と言い残して行った。
 実際葛ひとりでは大変だろう。「まあどうにかなるでしょう。」葛は平然としている。
 あんまり緊迫感のないものだから、「よくもまあ人が死にそうなときにそうも呑気にしていられるものだね。」と皮肉のひとつも言いたくなる。
 すぐそばで給仕している葛に、「あそういえば、」とナイフを持ったまま振り向いたら、いきおいその手に傷をつけてしまった。
「おやすまない、」
 慌ててナプキンで押さえ、流れ出た血を舐めてやる。――思ったよりもよく切れた。
「平気です、このくらい、」あからさまにはっとなって葛は私の手を払い厨房に戻った。
 応急処置をして戻って来た葛は、なにごともなかったように給仕をつづけた。



 その晩も夜中に目覚め、またかと思いつつ重いまぶたを開いた。青く暗い部屋の隅に、ほのかに赤い影が見える。人だ、と判じたその時にはすでにそれはすぐ脇まで来ている。
 おろし髪の少女。
 驚きはしたし、不気味ではある。だが怖くはなかった。
 可哀想に、と思った。
 血に濡れた着物を直し、そのかつらを外してやる。
「智実。」
 名を呼ぶと、昔の栄にそっくりなそれはぽろぽろと涙を溢して、消えた。




 翌午前、耳を裂くような絶叫。慌てて図書室を出て階を下る。頭を抱えた栄が、玄関ホールで暴れている。制止しようとする葛を振り払う。なんとかふたりがかりで押さえこみ、薬を打った。
 だらりとなった栄を寝台に運んだ。
 暴れている最中に頭を打ったようで、そう深い傷ではないようだが、気づけばその顔の半分が血で染まっている。
 葛は手慣れた様子で栄の手足を寝台に括る。傷を軽く手当したのち、「医者を呼んできます。」
 また暴れるかもしれないからと薬箱と、鍵を渡された。
「ご客人にすみません。少しの間お願いします。」
 さっきの騒ぎから一転、静寂に包まれた部屋でひとり栄を見下ろす。
 目をうつろに開いたままよだれを垂らしている。着物は乱れ、細く白い足がすっかり露わになっている。もう少し肉付きがよいほうがいいのだが。しかしこちらも幸い、古い痣のようなものはあれど、引きつれなど目立つ傷はない。綺麗だ。
 つい衝動に駆られ、鍵を手に家じゅうを探し――思いがけずすぐに見つかったその細い鞭を、その右足の付け根あたりに振り下ろす。ばちんという激しい音とともに、栄の身体が小さく跳ね、みるみるその部分はみみず腫れを起こす。
 さらに二度繰り返したのち、体を無理にねじったり、耳や胸の突起など敏感そうなところを、血がにじむまでつねったり引っ張ったりしたが、栄はほとんど反応を示さない。
 これではつまらないなと思った。知的な会話ができない。人形は人形でも、意志のあるものでなければならない。
 一時間半経っても葛は戻らず、栄はようやく意識を取りもどす。「葛は、」
「医者を呼びに行ったよ。」
「頭が痛い。――あちこち、痛いよ。」
「そうか、」
 喉が渇いたというので、その口に手拭いを突っ込んで、閉じないようにしたのち、水入れから直接水を流し込む。逃れようとするその顔は、ひざと手で押さえ込んだ。繋がれたままの手足はまともに動かせず、天蓋がきしきし音を立てる。
 栄は、涙を流してむせた。
「どうして、」非難する目で射られる。私は冷静に、「約束だろうそれに、これが君の望む罰だ。そうじゃないか。」
「罰、約束、なんのことだ。」
 栄は心底悲しそうな顔で私を見詰めた。
 いずれ葛も戻ってくるだろう。まずは、なるべく見えづらいところがよい。
 などと考え、嫌がる栄を無視してその下帯をほどき、睾丸を何度も鞭で打った。
 栄は、そのたび小さい声をあげて跳ねる。
 血のにじんだそこを潰さんばかりに押す。声をあげ逃れようとするが、それは叶わない。小便を漏らす。
 手が汚れた、その口に押し込んだ。歯があたり、軽い痛みを覚える。栄はえずきながら、それを受け入れた。もう抵抗をやめたようだ。なにか腹がたち、その舌を力いっぱい掴んでひっぱり出す。おのずと開いた口に鞭を突き立て、何度も掻きまわした。満足して解放してやると、栄は血まじりのよだれを吐き出す。
 ふたたび睾丸を打つと、栄は、「お父さん、お父さん、」と言って泣きながら射精した。
 私は便所へ行って、自分の処理を済ませたのち、小便を注射器に注いだ。
 部屋に戻ってそれを栄によく見せた。掠れた声で「やめて、」と懇願されたが、聞かずに刺すと、栄はこの世の終りのような声で「ああ、」しくしく泣きだす。
 泣かれるのは嫌いだった。無視してその体を簡単に拭いてやったのち、着物を直す。




 葛が連れてきたのは外科医だった。
「精神の医者だと思っていた。」
「あんなのは日常茶飯事ですそれに、精神の医者はふだんは東京にいらっしゃって、数か月にいちど見に来ていただくだけなんです。」
「目を覚ましたけど、あんまり騒ぐからさるぐつわをさせたよ。外さないほうが好いと思う、まだ正気ではないようだから。」
 栄はまだ泣いている。
 頭の傷は案の定大したことはなかったが、念のため縫ってもらった。
 葛は医師を送りにゆき、再び二人きりになる。
 栄の泣き止んで、今はただ悲しげに虚空を眺めている。
「痛いかい、」
 栄は静かに首を横に振った。咬ませた手拭いを取ってやると、何か言おうとするが、声が出ないらしい。もう暴れることはないだろうと判断し、拘束を解いてやる。
 ノートとペンを渡して、書かせた。
――ずつと憎いと許り思つてゐた 助け態と 併し最早分からない 分かり度くない
「どういうことだい、」
――Mein Vater(私の父)
 と独語で一度書いてしまってから、ぐしゃぐしゃと塗りつぶす。
――Er liebte(彼は愛した、)
 とここまで書いて筆を止め、幾分迷う様子を見せる。
――nicht mich, sondern(私ではなく、)
「誰を、」
 栄は首を振り、ページを破り取りちぎってしまった。
 新たなページに、便所へ行きたいと書くので、それは許さなかった。嫌がったが、そこの水入れにさせた。水みたいにさらさらしたものだった。
 寝台に腰かけうなだれる彼のとなりに座り、耳のなかに指をつっこんだり、唇をつまんで爪を立てたりしたが、反応らしい反応は返ってこなかった。
 耳元で「智実、」と呼ぶと、また「ああ、」と絶望した声音を発し、あたまを抱える。
 私は、そっと立ち上がる。引きとめるようにすがられたので、腹が立って殴った。
 乱暴にドアを閉じ、鍵をかける。
 いつのまにか智実がいた。動き出したので、それを追った。サロンに入る。
 するとそこは見たことのない豪奢な寝室だった。
 否、舞台のセットだ、と思った。
 どこかの王宮にでもありそうな、豪蕩たるベッドのうえには、でっぷりとした中年男。裸で横たわっている。天蓋から垂れる幕のせいでよく見えぬのだが、そのそばにはどうやらもうひとりいるらしい。
 そこへ栄が、舞台袖から現れる。まだ若かった。学生服を着ていた。
 ベッドを前に立ち止まり、頭を下げる。何か懇願しているのだろうか。
 その手には紙の束、もう片方には、日本刀が握られているのが見て取れた。
 私は一観客として、黙ってそれを見守る。
 彰造氏がベッドから降りてくる気配はない。栄には目もくれず、もぞもぞとやっている。隣にいるのは最初女だと思ったが、そのうちそうではないと悟った。
 どのくらい時間が経ったのだろう。
 彰造氏がようやくベッドから降りる。ダウンを着、栄の横をそのまま通り過ぎるかと思いきや、振り上げたこぶしでそのこめかみを殴った。いきおいバランスを崩し倒れた栄の腹を、執拗に蹴る。
 栄は刀を抜き切っ先を首に向ける、しかし能わずがくりとうなだれる。
 彰造氏が鼻で笑う。部屋を出て行こうとしたその時、栄が刀をふりかぶり、その背に切りかかった。
 そこへ飛び出してくる小さい影。彰造氏と栄のあいだに割って入る。赤い花が咲き、散る。
「ふうん、まあなんともおもしろくもない話だった。」
 いつのまにか隣の席に座っていた智実に話しかける。
「もう少しひねりが必要だよ。これじゃシェクスピヤの復讐悲劇の焼き直し、いやそれにも及ばない。――しかし、なんだ。きっと、君を助けたかったのだね、」
 智実は口を閉ざしたままこくりと頷き、それからううん、と首を振る。
「半分はそうで、半分は違う、ということか。なるほどね。」
 ふむ、と呻ってからふと、違和に感づき、「お前は誰だ、」
 問うと、それがにたりと大きく口を開け笑った。歯が一本もなく、そのうろから、どろりとした鮮血が溢れる。
 恐くなり、這々の体で逃げ出す。
 頭にこつんと何かが当たって、目覚めた。サロンのソファだった。足もとには小石が落ちている。天井を見上ぐ。
 二階に上がり、自室に入る。窓辺のマホガニーの棚を開けた。サロンで私が座っていたソファの真上である。
 中には、数枚の紙切れが置かれていた。



 戻って来た葛の足元に、その一枚を投げた。
 いぶかしげにそれを拾い上げる。はっとなって顔を上げる。「どこでこれを、」
「どこだってよい、」
「この邸のなかですか、まさか。この邸は至るところ――部屋によっては壁紙や床をはがしてまで、探したのに。」
 まだ傷の残る葛の手から、不意打ちに紙を取り上げる。「あっ、」
「これは返してもらうよ。さてお前の親の名をお言い。」
 葛はぐっと唇を結び、この世の者とは思えぬ暗い目つきで私をにらむ。しかし観念したように、「源五、りゅう。」
「どれ……あった、『稲生源五、リウ』。『葛』は偽名かね、」
「偽名というか……、母方の苗字です。」
「子は初介、ハツ、美代、キヨ、葉介、三郎、……お前は初介かい、」
「いえ次男です。」
「ふむ、稲生家二〇〇円。これはなんの金額、」
「もう分かってんでしょう、おおよそは、」
 紙の表には、几帳面に小さな文字が延々並ぶ。「そこにあるのはおそらく全部、松田彰造に金を奪われた者たちですよ。あの男は、俺の村やその周辺で、甘言を弄し嘘八百の投資話を持ちかけ、だまし取ったそれで身を立てた。もう四十年も前のことになりますがね。」
「どうしてこんなものがここにある、」
「数年前に村に来たんです、栄さんが、茂吉を連れて。私は働きに出ていて、その時にはいなかったんですが……。何でも学校のお休みで、夏の最中だったそうです。名前は別のものを使っていたようですが、特徴からして間違いないかと。」
「要領を得ない。何のために、」
「最初はご旅行ということだったらしいですが、そのうちその四十年前の、地域じゅう巻き込んだ大規模な詐欺事件について訊きたいと。村としてはしかし、やり口が巧妙で証拠もなく泣き寝入りした事件で、村いちばん恥といっていいようなものですから、いっそそのまま隠しておきたかった。でも栄さんは村長を丁寧に説得したそうです。きちんとひとつひとつだまし取られた額や内容を記せば証拠になるし、場合によってはいくらか取り返せるかもしれない。聞けば予科の学生さんということですし、ならこれから大学を出て偉くなられるんなら信ぴょう性も増すでしょう、ということで村長が協力したんです。」
「なぜ息子が父の罪をわざわざ穿さくする、」
「知りませんよ。でもそれが子息の作ったものだというなら、なおさら信ぴょう性が増しそうなものではないですか。ねつ造する理由があまり考えられないですからね。」
「そうだろうか。それで、」
「しかし結局、一年、二年経っても何も起こらない。私は東京にいまして、弟からの手紙でそれを知り、それで調べてみた訳です。するとどうやら、そこまでして作った証拠も使われていないこと、それが松田の子息であったらしいことも分かり、」
「それで村に言われて、松田に入りこんだと。ずいぶん手の込んだ話だね、」
「いえ村のほうは、とっくに忘れてるでしょうね。もともと栄さんのことだって半信半疑、絶対にどうにかなるだなんて思っちゃいなかったでしょう。なんせ、一度騙されてますからね。
 私の父は、あのあたりで唯一の学校の校長でした。それは大変尊敬されていたと聞きます。でも人が好すぎたんでしょうね。父は彰造氏にすっかり騙され、貯金をすべて奪われました。父が信頼したことで、ほかの人びともみんな松田を信じたんです。騙されたと分かった時、その怒りは父に、我が家に向かいました。ほかに何もない小さな村で疎外されることが、どれほどのことかなんて、あなたには分からないでしょうが。」
「それで復讐しようと企んだわけか。」
「栄さんが動かずとも、いずれ、とは思っていました。しかしあれこれ考えましたが、その表を使うのがいちばん手っとり早いと思いました。」
「がっかりした。お前はもう少し頭がよいと思っていた。意外と莫迦者だねお前は。こんなもの、あれだけの財力と地位があれば、簡単に握りつぶしてしまえるよ。」
「莫迦はあなたですよ。なんだって使いようです。そのものをわざわざ全部見せる必要はない。もっと大きなものを握っているように見せれば、いくらでも揺することができます。金銭はもちろん、精神的にもね。どうせあの男が若いころ関わった事件は、一つや二つじゃないんですから。でも、全くの嘘はぜったいにばれます。本当にゼロの状態では、上手くいきっこない。逆に、小さなものでも確実に何か握ってさえいれば、嘘はいくらでも飾り付けることが可能だ。」
「お前はよい詐欺師になるよ。」
「なんとでも。」
「それでお前は、この表を栄が隠していると思って、栄のもとに身を置いたのか。実際に見たわけでもないのに、村を訪ねた男が栄だったと信じる証拠は、どこにあったというのだ。栄がもうとうにこれを処分した可能性は考えなかったのか。まだこんな小さな邸のなかにあると、どうして信じられた。それにそれだけ探して見つからなかったんだろう。なぜだ。なんとも、解せないね。」
「私にだって、もうよく分かりません。」
 さっきも同じセリフを見た。
「それに一体どうして、栄はそんなことしたんだろう。まあこれは本人に訊いてみるか、」
「その必要はないと思いますよ。」
「何を知っている、」
 もはや割り切ったようすで葛はぺらぺら喋り出した。
 実はさっき興味深い話を聞いたんです。先生を送り届けた時、患者として訪問されていた方が昔松田の家の傍で働いていたというんです。訝しがられぬ範囲であれこれ訊きました。栄さんにはやはり五つ下の弟がいて、それは仲の良い兄弟だったそうですが、ある時ふたりお稲荷様に何か熱心に祈っているのを見つけたんだそうです。で、何を願っているのと尋ねたら、弟のほうが無邪気にこう答えたんだそうですよ、「お父様がいなくなるように、」。それでそのひとは、そんなことを願ってはいけないと大層お叱りになって、それからおうちのほうにもご報告したそうです。
 その晩、松田のほうから異様な音が聞こえるので、眠れずこっそり庭をのぞいてみた。すると裸で縛られた栄さんが、何度も何度も池に落とされては引きずり上げての繰り返しだったそうですよ。彰造氏と使用人の何人かが近くでそれを見ており、彰造氏はにやにや笑っていたとか。……大丈夫ですか、
 私はまたぐらが熱くなるのを覚えつつ、「いや大丈夫、」
「別に親からの折檻なんて珍しくもないですし、私だって殴られたのは一度や二度じゃないですよ。でも松田の場合はちょっと行きすぎていたようですね。特に栄さんに対しては、嫡男とは思えぬほどひどい扱いで、食卓も常に最下座、ひどいときは廊下で犬のように食わせていたそうです。これは以前下女から聞き出した話です。」
「なぜそのような、」
「知りませんがまあ親子とはいえ何かそりが合わぬとか、気にくわぬとかあったんでしょ。私には関係ないことですが。使用人たちは、茂吉をはじめ何人かはそれを不憫に思い、ときにひそかに慰めたりしていたそうですけれどやはり旦那様が怖くて見て見ぬふりをしてしまったと告白していました。中には彰造氏がそうなのをいいことに同じくモノのように、獣以下のように接する者もいたそうです。」
「なかなか興味深い話だ。もっと、直接いろいろ聞きたいものだね。どんなことをしたのだろう、うん、……」
「まあとにかくだから恨まれていたんでしょう親子といえ。……そろそろそれ、渡してくれませんか、」
 葛がじりりと一歩踏み出す。
「私はね奪われたのならその分奪い返していいと思ってます。二百円奪われたから二百円取り返すとか、そういう話ではない。私と私の家族が受けた色んな仕打ちを、同じだけ与えなくちゃいけない。人は人を憎んだ時悪になるんなら、私はもうとっくに悪に落ちている。もし邪魔するんなら、あなたも私から奪う者ということだ。なら、俺はあんたから奪い返す。
 うぬぼれに思われるかもしれませんが実際あの事件がなかったらきっと私は学校へ行って、どんな金持ちの息子より出世していたでしょう。私は将来ごと奪われたんです。でも、私にはもうとっくにそんなものありませんからね、」
「言いたいことはそれだけ、」
「あなたを殺してもいいと言ってるんです、」
「勇ましいことだ。私はこんな紙切れに用はないよ、でもタダで渡すことはない。」
 葛が近づくたび、私は後ろに下がる。その気になればこんなもの、すぐに破って燃やしてしまえる。
 葛は憎悪を込めた目で私をにらみ続ける。
 私はずいぶんとおかしくなってきて、笑う。
「これが欲しいのならおとなしく私の言うことを、お聞き。」



 三週間後、東京で支度を整えた私は、ふたたび邸へもどると葛とふたり、挿みこむようにして栄を連れ出し、ともに汽車に乗った。
 暴れ出したり逃げ出しては困るので一応、腿と腿を繋いで走れなくし、腕も胴にくくったうえ着物を着せた。
 私ひとりで連れ出しても、発作を起こされては騒ぎになるし、手に負えぬ。そこで紙切れと引き換えに、葛を付き添わせたのだったが、栄がそのようになることはなかった。
「しかし栄さんを無断で連れ出したのがばれたら、松田彰造は黙っていないでしょう、」
 条件を提示した当初葛はそれを拒んだ。
「今さら、怯えているというのじゃあるまい、」
「それに荷担したと分かれば立場が悪くなる。計画があるんですよそれが台なしだ。」
「お前は頭がよいんだろ。うまくやれよ。俺は今すぐこれを燃やしたっていいんだよ。お前だって、わざわざ怨敵の懐に入りこみ気狂いに数年尽くして青春を徒にしたうえ消されるのじゃ、つまらないだろう。さあ、どうするね、」
 悔し気に顔をゆがめる葛を見るのは、心地がよかった。そうか、私はこいつが嫌いだったのだ、出会った時から。下郎のくせに生意気な口をきく、外国語の本など読みやがる。小癪だ。身の程を知れ。
 そう考えると、松田の家に対してもそうだったかもしれない。松田彰造の手腕は、たしかにすごい。でもけっきょくは、急ごしらえのいびつな楼閣のうえであぐらをかくたぬき。どれだけしゃらくさく着飾っても、卑しい出自は、変わらぬ。それが外国からもそれなりに評価されているというのが気にくわない。俺の家のほうがよっぽど由緒があり俺自身品格を備えている、それなのに俺はあんな中途半端な家の、中途半端な女と結婚し、仮にどうこうしてそれなりに成功を収めたとしても満足感のひとつも覚えることのないままに死んでゆくのだ。こんなUngerechtigkeit理不尽があるだろうか。
 葛が私を見て、はっと笑った。
「つまりあなたもご同類というわけですね、」
「何がだ、」
「あの気狂いと、ですよ。あれはとんだ食わせものですからね。表向きはなんだかんだと言ってその実、叩かれて喜んでいるんです。気もちが悪い。いわゆる変態性欲というやつだ。あなたも多少向きは違えど、その類でしょ、」
「なぜそう思う、」
「見てば分かります。」
「ふん。だからどうしたね。それに、誰と『ご同類』だって。お前と、だろう。俺はなんにも言っていないのにそれに気づくお前もやはり、変態性欲なのじゃないか。」
「ばかな、」
「お前も打ちながら楽しんでいたくせに。」
「違います、楽しんでなど、……」
「とぼけるなよ、」
「あなたも、おかしい。」
「とにかく俺は栄を東京へ連れてゆく。」
「分かりましたお手伝いしましょう。でもあなたまずは鏡を見てごらんなさい。今ご自分がどんな顔しているか、お気づきになっていないんでしょう、」  その時すでに外が暗くなっていたので、窓ガラスが鏡代わりになった。落ちくぼみ“くま”の浮いた目はぎらぎらと赤く血走り、まさに何かに憑かれているというふうだった。
「しかしこんなのはね、お前だって全く同じなのだよ、」
 私とは異なり、葛はガラスから目を背けた。
 自覚があるんだろう。



 汽車のなかでも栄は、薬のためか、始終ぼうっとしたままだった。
 みかんを剥いてやったがいらないと言うので、無理に口に押し込んだ。嫌がるのが、可愛かった。
 それでもそのうち眠りこけ、私の肩にもたれてくるのも、いとおしい。
 私はつい口元が緩むのを抑えることができない。
 葛はそんな私たちを睨みつけていたが、そのうちうんざりした様子で目を反らす。
 その睥睨へいげいが、じつは嫉妬から生ずるものだと私は理解している。
「うらやましいか、ならお前も“こちら”に、おいで。」
「私はあなたとは違う、」
「そう、」
 私は今、満ちたりつつあった。



         *



 冬空の下、葛はひとり公園のベンチに座っていた。
「久しぶりだね、」
「栄さんはお元気ですか、」
 そっぽを向いたまま答える。
「僕は水責めが一番気に入った。」言いながら私はすこし空間をあけて隣に座る。「たいそう気に入った。やはり嫌な思い出があるんだろうねえ。もう体が大きいから、池に落としてひっぱりあげて、というわけにはいかないんだがね。頭を水桶に突っ込んだり、顔に手拭いをほっかぶせて延々水をかけるのさ。最初のうちはごめんなさいごめんなさいと言って子供みたいに泣くんだけれどそのうち釣り上げた魚のようにぴくぴく跳ねてぐったりしてしまう。あれはほんとうに……、」
「例のものですが、」
 栄の件で私はいま逆に葛におどされている。金を包んだ風呂敷を渡す。
「それからこの間爪を剥ぎ終えたんだ。一日二枚ずつなので十日かかった。これは最初はあんまり好かないと思った。声がね、ぎゃあと叫んでぎんぎん響くものだからね。でも二回目三回目となるうち、弱々しく絶望した色に変わってくるんだ。楽器は使いこむことで音が変化し場合によっては深みを増す、なんていうだろう、それと同じなのじゃないかと思う。それに剥げたところをぶつけないようびくびくと庇うその姿はとても愛しいよ。足を剥いてしまえばまともにも歩けないしね。この間は縛りつけたうえでさんざん脅かしてからそのうえに塩の壺を落してみた。これがいちばんいい音色だった。」
「私はね別に金が欲しかったわけじゃないんです。ずっと昔から、働きながらでも、できることはなんだってした。料理や言語を覚えたのもすべて、それが何かそのために役にたつと思ったからです。でも全て無駄になってしまった。」
 葛が実際に行動に移る前に、彰造氏は心臓発作で死んだ。茂吉によれば、息子が消えたとの報せを聞いて間もなくのことだったらしい。元来は気弱なひとだったとも、風の噂で耳にした。
「そういえば結局智実さんの死は、松田彰造の行き過ぎた虐待によるものだったそうです。栄さんを薬漬けにして閉じ込めたのは、栄さんが真実を知っていたからかもしれない。神話や小説や戯曲――史実にすら、よくありますね。反逆や復讐、予言を恐れ子を遠ざけたり、殺そうとしたりするわけです。まあ今となっては真実なんて藪のなかですけどね。」
 養子縁組はすべて破談になったそうで、松田が持っていた会社は全て他人の手に渡ることとなった。
「私はほんとうに、栄さんのことは、嫌いじゃなかったですよ。……まともな時は。」
「もうまともなことなんてあまりないよ。」最近、薬の効果が長続きしない。
 妻を亡くした茂吉を引き抜いて、今も世話をさせているが、薬を打つのは私がやりたい。注射器を見せるたびに猿みたいに怯える、その様子が愛らしいからだ。
 なので、会社にもろくに顔を出さず、新婚の妻もほったらかして、栄を閉じ込めた倉のある秘密の別宅に入りびたっている。
「まともにしゃべれるのは三日、四日にいっぺんくらいかしら。」
「栄さんはどのみち衰弱してじき死んでしまうでしょう、ああいう強い薬はきっと死期を早めるものでしょうから。」
「訊きたかったんだがお前はモヒで人を殺すつもりだったのかい、」
「別に使いみちなんか定めてませんが、手元にあるならいざってとき自在に使えたほうがよいと思ったまでです。他人相手にしろ、自分に使うにしろ。
 まあとにかく、その時までどうぞお二方ともおしあわせに。でも約束はちゃんと守ってあげてくださいよ。これは私からの、あの人へのせめてもの手向けです。」
「約束、」
「したんでしょう、詳細は知りませんがね。」
 言われて不意に思い出した。あの夢、思い出の続き。
 栄はあの日、蛙を打ち殺した私にそっと耳打ちしたのだ。「もしほんとうに死にたくなったら、きっと僕を探して。僕のところへ来て、」そうしたら……とまたさらに何か続けたはずだったが、その先はやはりまだ記憶が戻らない。
「でも、たしかにあの人の望みはいつだってひとつだけでした。では。」
 立ちあがったところを引き留める。
「待ちなさい、これからどうするつもり、」
「外国にでも行きますよ。そこで身を立てるのもよい、」
「弟は置いてゆくのかね。」
「とうに死んでます。数年前村で自殺したんです。村人が殺したのではと思われる個所もありましたが、なんとも。まあ、もう昔のことですから。」
 葛はさいごまでこちらに顔を向けることはなかった。去ってゆくその肩から背には、ぼんやりと赤黒い影が見える。
「まあ、なるべく頑張って生きることだね。お前ならきっと、その気になれば、どこででも生きてゆけることだろう。」
 これが私の彼への手向けだった。
 いずれにせよ彼の行く先は暗い。一度それを垣間見た人間の行く先に、光に満ちた居場所などある訳がない。冷たい土と墓標だけ。あるいは業火。いずれにせよ人が死に、奪い奪われるかしかないところ。
 あるいは船に乗ればそれは沈むのではないか、とも思った。根拠はないが、そう思った。
 私もまたきっとろくなことにはなるまい。
 気づけばさっきまで葛がいた場所に“それ”は座している。
 栄を連れてきてから、それはずっと私の傍にいる。智実だと思った、でも違ったかもしれない。彰造氏に騙されて自死した者の霊かもしれない。狐かもしれない。葛の弟かもしれない。
 栄かもしれない。私かもしれない。なんだってよい。



 私はちょっと寄り道をして、必要なものを持ってから別宅へ行った。
 茂吉が出迎える。老人特有の、全て見通しながらも何も口にせぬといった神妙な色の目で私を倉へ見送った。
 倉の内壁は音漏れを防ぐため土を分厚く塗った。窓もほとんど塞いだ。血や体液の染み込みを厭い、畳も敷かず土間のままにした。
 とびらを開けると、じめじめした不快な暖気がまとわりつく。
 栄は昨日から中央の太い柱に繋いでおいた。起きていたようで、私に気づいて顔をあげるが、さるぐつわを嵌めているので、声はない。
 もう、ひどく痩せている。骨を折ってはそのままにしているので、あちこちいびつに変形している。着物の下は引きつりだらけだ。
 とはいえ体は時折洗い、着替えもさせ、髪やひげもきちんとさせているから、とても清潔である。
 栄はふっと悲しげに目を伏せ、それで正気らしいと気づく。
 さるぐつわと鎖を外してやった。
「今日は、どこへ行っていたの、」かすれた優しい声で問われる。
「葛に会ってきたよ。元気そうだった。外国に行くそうだよ。」
 答えながら、先日折ったその手首をひねる。栄は、きゅうと鼠を潰したような音を喉から発した。
「どうしてこのところちゃんと声をあげないんだ、」
「だって君、あげたところでやめてはくれないじゃないか。」
「やめてほしいわけじゃないだろう、」
 うつぶせに土間に組み敷いて、腕を変な方向にねじりあげる。その間に彼の下半身はすっかり反応している。解放すると、
「どうしてこうなったのか僕にも分からないんだ。」
「理由など、どうだってよい。さあ、立って、」
 左足のすねが外側に曲がって、足の長さも違うので栄はもうひとりで立つこともままならない。柱に背を持たれさせ、震える右足でなんとか立たせる。
 倉の隅でうずくまる赤い影が目に入る。
「ねえ今日は何をするんだい。」
「すぐに分かるよ。」
「葛に、また会えるかな、」
「もう無理だよ。」
 持ってきた刀を抜いて、振り下ろした。栄の身体がゆっくり割れる。すでにすっかり軽くなったそれがぱたりと紙のように倒れ落ちる。
 仰向けに直すと血泡を吹きながら彼はまず最初に「お父さん、」と言い、それから、「智実、」と言った。最後に「ありがとう青木。」と言って微笑み、その後目を見開いたままびくびく痙攣を始める。私はその痙攣が止まらぬうちに二度その傷を犯し、動かなくなってからも一度、犯した。
 気づくとあの子供のすがたは消え、私の着物はすっかり赤く染まっていた。
 結局栄との約束がなんだったのか、ついぞ思い出すことはなかった。それでも、私は非常な幸福のなかにあった。
 刀を自分の腹に突き立てた。一文字に引いて、わたをぬるぬると引き出す。くらくらしながらも、それを栄の手に巻いた。ほんとうは体に巻き付けたかったが、それは無理だった。
 どっと栄の上に倒れ込む。
 さいごにもう一度「ありがとう。」と聞こえた気がした。