初夏(はつなつ)

BL(になりそこねた何か)・現代もの・多少性的描写あり
 恋愛対象に対して、男は『一点豪華主義』、女は『総合評価主義』だと言う。つまり男は相手の顔さえよければ、料理さえうまければ、スタイルさえよければ、他の短所はさして気にならなくなる。対して女は、見た目、性格、収入や将来性、人脈、知識、センスといったもろもろの評価を加点して考える、のだそうだ。
 それが仮に真実だとしても、女だって、相手の見た目がめちゃくちゃ良ければ、他の短所も補うだけの点数になるなら、結局は同じじゃないかと僕は思う。
 特に先輩を見ていると、本当にそう思う。


 僕が先輩の存在をはっきり認識したのは、大学に入学したての、まだ五月病が抜けきらない初夏のことだった。
 一限目の講義が急に休講となったので、中庭に面したカフェテリアで、ひとり時間をつぶしていた。僕以外は売店のおばちゃんしかいないという、静かで穏やかな空間だった。
 そんな時開いたガラス戸の向こうから、こんな声が聞こえてきた。
 付き合ってる人とかいるんですか、実は前から気になってて、もしよかったら、付き合ってもらえませんか。
 視線をあげれば、中庭にワンピースに身を包んだ綺麗な女子学生と、背が高くやたらスタイルのいい男子学生が見える。告白しているのは女のほうだ。  僕がでばかめ精神で見守っていると、
「ふうん、で?」
 男の冷たい声が静寂を断ち切る。
「俺と付き合いたいって? よくその顔でそんなこと言えたね。鏡見たことある? あるなら、すげえ勇気。でも俺、ブスに興味ないんだよね」
 思いがけぬ辛辣な答えに、女子学生だけでなく僕も唖然とする。
「そもそも俺、お前の名前も知らないんだけど。いや、名乗らなくていいよ。知りたくもないし。でもさ、考えてもみなよ。名前も知らない奴にいきなり告られて、ふつうすげぇキモイって思うじゃん。つまり、気持ち悪いんだよ、お前」
 もう二度と話しかけないで、と言って、男は冷酷にきびすを返した。
 女子学生はすでに泣きだしていて、その後はどこかへ駆けて行ってしまった。


 その夕方、敷地の隅にある古い校舎の小教室に足を運ぶと、見慣れつつある数名が笑顔で出迎えてくれる。その向こうに、机をベッド代わりにして寝ている男――先輩を認めた。
「こんにちは」と声をかけると、先輩は目元を覆っていた腕をどけ、ちらりと一瞥しただけで、また眠りについてしまった。
 綺麗な形の目だった。通った鼻筋も顎も細い。でも、それだけだ。僕にはなんの感慨も湧かない。
 ここは『芸術文化創造部』という名の同好会の活動場所だ。その名の通り中身もうさんくさく、学園祭で各自趣味に毛を生やした程度の、小規模な展示を行うくらいしか、活動らしい活動はしていない。こんな部にも予算が下りるのがふしぎだ。それでも、『変人の巣窟、あるいは流刑地』などと称されるこの場所を、僕はひと目で気に入ったし、入部に迷いもなかった。部員の中では『普通』の方だと思う僕も、多かれ少なかれ“変人”なのかもしれない。
 部員は十人弱で、毎週多少メンツは異なれど、多くが顔を出す。
 僕は人と仲良くなるのは苦手ではないので、すぐに打ち解けることができた。けれど先輩とだけは、なかなか距離が縮まらなかった。
 元々なんとなく避けられているような感じもあったし、僕自身苦手意識もあった。
 入学当初から噂になっていたので、先輩のことは知っていた。とにかく異性にもてる。まあ群衆の中でもそこだけ切って貼ったように浮くほどの美形なので、それは仕方ない。考えるまでもない。同時に、性格が悪いだの、女をとっかえひっかえしているだのの噂もあった。
 そこへ今朝のあのシーンである。苦手意識に拍車がかかった。あんまりもてると、人の心も分からなくなってしまうのだろうか?
 何も、あんな言いかたをしなくてもいいのに。



    ■



 夏休み初日の晩、僕は都内の歓楽街にいた。明日はクラスの打ち上げ、その後はずっとバイトを入れているので、行くとしたら今日しかない――そう以前から心に決めていた。
 オフィスビルのワンフロア、その片隅で、僕は人生で二人目の相手と関係を持った。名前など詳しいことは聞かなかったが、『会社帰り』と言ったので、多分会社員なのだろう。左手には、結婚指輪の跡がくっきりと見えた。恐らく学生時代はスポーツをやっていたのだろうが、それが崩れかけただらしない体型、ふくれたビールっ腹が好みだった。
 その後もう一人とセックスした。そちらは顔はよく見なかったが、中肉中背、やたら手慣れた感じだった。
 ひとまず満ちたりた気分でシャワーを浴び、更衣室で服を着ていると、なんだか見知った形の人影が入って来た。
 先輩だった。
 僕はぎょっとして思わずロッカーのドアで顔を隠す。先輩は僕とは逆に服を脱ぎ始め、つるりとした背中が露わになる。
 少し前に入店し、着替えを済ませたばかりの客が、先輩にそっと近づいて体をぴたりと寄せた。ロッカールームで言い寄るなんてこともあるんだ、綺麗な人はどこにいても目立つな、黙ってても相手が寄ってくるのは羨ましい――などと思いつつ、二か月前に見た中庭でのあの場面を、僕は思い出していた。少しだけ、納得がいく気もした。
 こそこそと横目で経過を窺っていると、なぜか急に先輩は、脱ぎかけていた服を再び着始めた。馴れ馴れしく体を触っていたその男を突き飛ばすようにして、出入り口のほうへ走り去る。
 僕もそれに引きずられる形で、とっさにその後を追う。深くは考えていなかった。
 扉を出るとすぐ、階段を下りかけていた先輩が振り返った。バチリと目が合う。しまった、と思う。
 しかし先輩はさっと目を背け、そのまま階段を駆け下りていった。




            2.


 先輩と飲みに行くようになったのは、まあこんなことがきっかけだった。
 僕のほうは、最初は正直、それでどうするべきか計りかねていたが、先輩のほうから、誘いのメールがしばしば入るようになった。
 性指向が同じというだけで仲よくしなくてはいけない理由もない。だが、もしかして僕は先輩の好みなのだろうか。僕のほうはそうでもない。そうでもないが悪い気はしない。
 しかし会ってみれば会話のほとんどは授業についてなど当たり障りのないものばかりで、食事だけ済ませて別れるというのが常だった。
 僕は、まだまともな恋愛は一度もしたことがない。これが何を意味するのか、友達と言っていいものかもよく分からなかったが、いずれにせよ先輩のことはそう悪い人でもないという風に認識を改めた。



 それが訪れたのは、本当に突然だった。
 立ち飲みバーで飲んでいた時、ふとグラスを持つ先輩の右手の、親指の形が妙に気になった。
 先輩も、その日はちょっと変だった。やたら湿っぽい視線を投げられ、湿っぽい触り方をされた。途中で、気のせいではないな、とはっきり自覚した。
 少し早めに切り上げ、本来逆の電車に乗るはずの先輩が理由も言わずに僕と同じ電車に乗って来て、ああこれは、と思っているところに、駄目押しで「お前んち行ってもいい」と訊かれた。
 自宅の最寄り駅に着いた頃には、あれこれ先走った考えで頭がいっぱいで、先輩がちゃんとついて来ているかくらいしか、気にする余裕はなかった。
 ぽつぽつと街灯がともるだけの、人通りのない住宅街で、先輩が立ち止まる。僕はそれに気づかず、しばらくそのまま歩き続けてしまっていたが、後ろから呼び止められてはたと振り返る。少し離れた場所で仁王立ちした先輩が、「やっぱ、帰る」
 僕は頓狂な声をあげてしまう。ここまで来て、“帰る”。砂漠が氷点下にまで下がったような、落胆と困惑。「でも……すぐそこですよ、僕のアパート」  先輩の口はへの字に曲がり、何かこう、形容しがたい複雑な渋面を浮かべている。
 先輩が黙ったままでいるので、僕もどうしようもなく突っ立っているより他ない。
 しばらくして先輩は弾かれたように、「やっぱ行く」と低い声。こちらに向かってくる。
「はあ……」
 僕は、このまま浮かれていていいのか迷う。全く意味が分からない。
 とりあえず家には上がってくれたが、先輩はまた玄関と部屋との間の、半端なところで立ち止まる。落ちこんでいる風にも見える。うつむいている。  前髪と壁の影が表情を隠し、その内心を読み取ることはできない。
 でも僕は意を決め、ぐっと身を寄せた。何か待っているように見えた。拒まれはしなかった。キスをし、そこからは遠慮なく舌を入れた。先輩はまるで初めてキスする女の子みたいに、体を固くする。が、僕にはもうそれを意外に思う余裕もなかった。なぜなら先輩もすでに反応しているのだ。
 台所の床に押し倒す。Tシャツを慌ただしく脱ぎ捨て、何はともあれ先輩のベルトに、まっさきに手を伸ばすが、「待った、待って」先輩は言って、僕の手をはじく。いらいらした。「何で」
「先に言っとく。……俺、“HIV”なんだ」
 それを聞いた瞬間、僕は、ビビった。
 中心で一気にそれが萎んでしまう。
「ごめん」とだけ言い残し、部屋を出て行く先輩を、僕は引き止めることができなかった。





「なんでメール無視するんですか」
 講義終わりに待ち伏せると、先輩は驚いて口をぱくぱくさせる。しかしそれでも逃げようとするので、腕を引っ張り、力づくで止めた。
「ばかか。痛ぇだろ」
「あれから何通も送ってるのに」
 さすがに翌日先輩からのメールはなく、僕も何をどう言えばいいか分からぬままに、ひとまず謝罪のメールはしてみたものの、うんともすんとも返事はなかった。最初は申し訳なさと後悔でいっぱいだったのが、数日経つにつれ、それもだんだん怒りに変わった。
「元はといえばお前が悪い」
「だから、謝ってるじゃないですか」つい声を荒げてしまう。「ちょっと話がしたいんですけど」
「逆ギレする奴と話なんかしたくない」
「先輩がひねくれてるから」
「はあ? それは今は関係ないだろ。お前、謝りにきたんじゃないのか。喧嘩売りに来たのか」
 という水掛け論が衆人環視の的になってきたので、場所を移した。
 構内で一番ひと気の少ない屋外の喫煙所に行ったが、冬場なので寒くて、先輩も僕も震えながら話を再開する。
「確かにあの場面、僕も悪かったですけど、あんな深刻な顔で言われたら、誰だってビビりますよ」
「やっぱビビったんだ」
「っていうか、びっくりしたんですよ。でも調べたら、“HIV”だって何だって、エッチできるって。ゴムさえしてれば」ちなみに“HIV”とはウィルスそのもののことなので、感染している人に対しては“HIVキャリア”などと言うのが正しい。などということも調べた。「何のためのゴムだっていう話で」 「ゴムは日本語で『避妊具』って言うんだよ、言っとくけど」
 先輩はたばこをぷうぷう吹かしながら、人を食った顔で言う。
「とにかく、ゴムしてればほぼ百パー大丈夫なんだって、WHOも言ってたし、俺、発展場でもゴムしないことなんてないですからね」
「ふうん、偉いね」
「だからもう一回チャンスを下さい!」
 まどろっこしくなって、ド直球で言ってしまう。セックスさせてくださいと頭を下げて頼み込む男ほど、情けないものはないと思う。
「そんなに俺としたいの? じゃあ、してあげてもいいけど」
 僕よりちょっと高い位置から、文字どおり『上から目線』で言われて、僕はむかつく。黙りこむ。ベンチに座って、
「先輩って、そもそも自意識過剰なんですよ。今日日、HIVもそう珍しくないっていうし。ふつうに、女も男も、ゲイもノンケも、おっさんもおばさんもいるでしょ。恋人とか旦那とか奥さんとしかヤッてなくても、相手が別のどっかからもらってきたら、分かんないし。だから……ってか、そもそも、先輩が……先輩のほうこそ、あんなすぐ逃げ出さなくたって……」
 ぶつぶつ文句を言っていると、先輩はたばこの火を消し、おもむろに僕にキスした。
「じゃあ俺と付き合う?」
 売り言葉に買い言葉で、「いいですよ」僕はいきおい、言い切る。
 先輩は「ふうん」と言って、にやにやしながら満足げに去って行く。
 寒空の下ひとり取り残された僕は、
――なんだこれ、駆け引き?
 まるで僕がそれにすっかり負けて、自分から折れたみたいな構図ではないか。
 呆気にとられていたが、なんだかおかしくなって、笑った。



   ◇



 HIV、Human Immunodeficiency Virus、ヒト免疫不全ウィルスの略。
 簡単に言うと、人に感染して免疫機能を狂わせ、抵抗力を低下させてしまうものだ。
 精液と血液の中に多く潜み、主に性行為と、途上国では不衛生な医療等によって、人から人にうつる。
 一度感染してしまうと、少なくとも現代の医療では、体から完全に消し去ることはできない。一生薬を飲み続けなくてはならない。
 薬をやめたり感染を放置すると、CD4細胞という免疫を司る白血球が減り続ける。そして普通の免疫状態ならかからないはずの、重い病気にかかり、最悪死に至る。――うんぬん。



   ◇


 つづき