Die Pupillen

ジョーカー・ゲーム二次。柩ショックで書いたもの。
『柩』&原作の『ワルキューレ』もベースにしています。
“燃やされ”ちゃった女の子のお話。オリキャラ。萌要素無し

 一羽の若いカササギが、ベルリンの空を、悠然と駆けてゆく。
„Warten Sie, Fräulein.“
 後ろから声をかけられ、マルガレーテは、通りをゆくその足を止めた。
 振り向くと、鳥打帽を目深く被った男性が立っている。
„Sie haben das vergessen.“(お嬢さん、お忘れですよ)
 差し出されたのは、たしかに彼女の手袋だった。先ほど使いで寄った店で、品物を受け取る際に脱ぎ、そのまま置いてきたものだ。
 男はすぐに彼女を追い越し去ってゆく。
 その背を見ながらマルガレーテは、まただ、と思う。その顔貌や姿は“いつも”彼女の記憶に留まることなく散ってしまう。
――“あの瞳”を除いて。



 それは一体いつから始まっていたのか。もしかしたらもうずっと前から、自分はその掌中にあったのかもしれない。はっきりしたことは分からない。だが、ひとつ明確に始点を設定するなら、約ひと月前、汽車のなかでの出来事だろう。
 あれはマルガレーテがひさしぶりに休暇をもらい、田舎の両親のところに顔を出した帰りだった。
 彼女は、ひどくつかれていた。実家の状況は、手紙で知らされていたよりも、はるかにひどいありさまだった。
 父親は何年も前から傾き続ける家業をなおも手放せず、おかげで借金は膨らむ一方。毎晩のようにどこからか仕入れた高価な酒で飲んだくれていた。
 博愛かつ楽観主義の母親はといえば、自分の家を顧みることなく他者に金や物を分け与えてしまう。
 マルガレーテ自身は、よく働き、得た給金のそのほとんどは仕送りしている。にもかかわらず、家計は一向によくならない。
 おまけに今回追い打ちをかけたのは、数年前に家出した姉に関する噂だった。
 今は国内のどこそこで、ユダヤ系の男性と暮らしているらしい――。真偽のほどは分からない。噂の出所も不明。だがそれはマルガレーテを不安に陥らせるには、充分すぎるほど効果があった。
 汽車のなかでそれらを思い出し、めまいを覚え、手洗いに立つ。用を終えても、窮屈な客車に戻る気にはなれなかった。立ったまま窓外を眺めていると、いつのまにか男性もひとり、客車から出てきていた。彼は穏やかな口調で何か話しかけてき、マルガレーテもまた気軽く応じた。警戒心や不快感は一切湧かなかった。和気あい然と過ぎた会話の終わりに、彼女の耳元でひとことふたこと告げて、彼は客車へと戻っていった。
 それから今した話の内容を思い出そうとしたのだが、なぜか記憶があやふやだった。彼女自身は、„Ja... Das ist richtig.“(ええ……その通りです)„Ich verstehe.“(わかりました)„Ja, gern. Das tue ich bestimmt.“(ええ、よろこんで。必ずやそれをやりますわ)こんなことを言ったように思う。だが、一体何を“やる”のか、自分でもよく分からない。
 ぼうっとしたまま、少しして彼女も客車に戻った。男の姿はもうなかった。


 その後マルガレーテはまっすぐ勤め先へと帰った。ベルリン郊外の湖畔に立つ、豪蕩ごうとう白亜の邸宅がそれだ。この家には六人子どもがいて、下の五人はまだ幼い。いそがしい夫妻に代わり、マルガレーテを含む数人の子守と家庭教師が世話にあたっている。
 さっそく仕事を再開し、あわただしく働くうち、汽車での会話がぼいやりと思い出されて来た。あの男は、なぜか彼女の家のことをよく知っていた。どれだけ金に困っているか、そして姉のことすらも。
 男は、「我々には、あなたが職を失わないための手助けと、借金返済のための援助ができる」と言った。
 察しのよいマルガレーテは、それでおおむね理解した。彼が具体的な要点を切り出す前に、こう訊いたのは、彼女のほうだった。「私は何をすればよいのでしょう?」
 借金もそうだが、問題はあの噂だ。もし事実で、それが雇用主にばれたら、さすがにこの仕事は続けられないと思う。そして今彼女が失業すれば、実家の生計は、まず間違いなく崩壊するだろう。
 あれらの言葉は、そうして発せられたものだった。
 そこまで思い出してなお、彼の面立ちや背丈などの詳細は、どうしてもよく思い出せなかった。ただ、その瞳の色が濃かったことだけは、妙に印象に残っている。この国や周辺の国々にも、深い色の目をしたひとはいる。だが、おそらくそれとは少し異なる、馴染みのない味わいがあった気がする。
 言葉は流暢だったので、会話の最中にはあまり気にならなかったが、もしかしたら彼は、外国人だったかもしれない。いやそれよりも、もしかしたらあれは全て夢だったのかもしれない。そう考えるほうが、まだ現実味があった。


 それが甘い目算であったことは、その翌日、はっきりと思い知らされた。
 午下、人から預かったという手紙を、使用人仲間が渡してくれた。便箋をひらくと同時に、彼女の脳裏に、いくつかのセンテンスが思い起こされた。はっとし、思わず傍にあった暖炉にそれを投げ込んでしまった。
「やだ、どうしたのよ」手紙を運んでくれたメイドが、慌てて拾い上げ、「なんだ、これ、お誘いのお手紙じゃない」
 それはよく若い男女が交わすような、ありがちで純粋な内容の手紙だった。ふつうなら、そうとしか見えない。
「まあ、かわいいマルガレーテグレートヒェンですって。いいじゃない、会ってあげたら」
「でも、私は……いいのよ」
「気恥ずかしいのは分かるけど、だからってまともに読まずに捨てることないわ」
 臆病で奥手なマルガレーテは、異性からアプローチを受けても、いつもすぐ逃げてしまう。それをみな知っているので、彼女の動揺ぶりにも違和は感じなかったらしい。
 あとで直接手紙を受けとったという料理人に、差出人がどういう人物だったかと問うと、顔はよく覚えていないが、たしか労働者風で、マルガレーテとおなじくらいか、もう少し若い少年のような感じだったかもしれない、などという曖昧な答えだった。
 それでマルガレーテは、確信した。あの男だ。やはりあれは、夢などではなかったのだ。




 返された手袋をはめ直しつつ、記憶を巡らせる。これで何度目の接触になるだろう。三、四……たしか五はいかないはずだ。
 手袋は言わずもがな、本当に置き忘れたのではない。わざとだ。それを“偶然客として居合わせた“あの男が拾う。すべて彼のシナリオだ。
 おそらく彼女が中に忍ばせておいたごく小さな秘密のメモはすでに回収され、代わりに彼からの次の指示が入っているはずだ。それらはタイミングを逃せば自然に破潰し、読めなくなってしまうよう細工がほどこされてあるので、仮に手違いで他者に渡ることがあってもさほど心配はない。
 もちろんそんな細工の仕方など、彼女はつい数か月前まで知らなかった。
 あの手紙で、初めて知った。
 まず汽車で彼が最後に耳打ちしたのは、あの手紙の本当の読み方、つまり暗号の解読方法だった。細工方法は、口頭で伝えるには少々やっかい、だが平たい文にすれば他者に見られる恐れがあったのだろう。それは後日破棄するにしても、暗号と平文とでは危険の度合いが違う。
 細工は手紙のとおりにやれば、素人の彼女にも難しくはなかった。道具すら、厨房にあるようなものだけでよかった。
 そうしたやり方で彼女に求められたのは、勤め先の主人の書斎に忍びこみ、目につく書類――特に日記などの内容を伝えることだった。
 なぜそれを欲しがるのか。それはある程度は考えずとも察しがつく。彼女の主は政治家だ。敵は多くいる。そのうえ今は戦争中でもあるし――あるいは平時であっても――主の持つ情報は、国内外から非常に有意義な代物なのだろう。
 日記には今後の政治的動向や計画が記される可能性もあり、さらにそこから主の人物像や思考の癖、判断基準などを浮かび上がらせることができれば、これからどのように国や戦争を導くつもりなのか等を推測するなども可能かも分からない。
 とにかく彼女は要請されたことだけに素直に従った。
 当初は、部屋に忍び込むのならば子守であるマルガレーテより、室内清掃などを主な仕事とするメイドのほうが好都合なのではないかとも思った。だがいざやってみると、彼女がふだん子どもたちの相手をしている場所からは、主の書斎やその付近のようすがよく見えたし、休憩時間などからしても、多くの面で彼女はほかの誰よりも都合がよいと分かった。さらにひとつ付け足せば、仮に部屋に異変があったとき、真っ先に疑われるのは、子守でなくメイドのはずである。
 そこまで思い描いて彼女に狙いをつけたのだとすると、いささかぞっとする。あの男は一体何者なのだろう。
 しかし、彼がどこの誰で、得た情報を何に利用するつもりなのかなどは、彼女はあまり考えないようにしていた。探るという行為は、何か自分にとって不都合な結果を招きかねない、そんな気がしたからだ。
 ともすれば、これは祖国を裏切る行為なのかも分からない。それは彼女にとっても本望ではない。自分の国を愛さない人間などいるだろうか。
 だが、それは別問題だと感じる自分もふしぎと存在している。とにかく今は、目の前のことが重要だ。これはお金のため、ひいては家族のため。それはきっと神も理解してくれる――。そう自分に言い聞かせれば、少しだけ安心できる。
 数度まみえてなお、あの男を思い出そうとして浮かぶのは、あの暗い瞳ばかりだった。それは彼女のなかで、何か神に次いで強大で、抗うことの許されぬもののように感じられる時がある。まるで操られているようにすら思う。


 邸内は平素より少しばたついていた。今日は主の朋輩たちが晩餐に来る。珍しいことでもないが、日常と同じという訳にはいかない。
 間もなく主が帰宅する。内心ぎくりとしつつ、マルガレーテは何ごともなかったように振る舞う。父親を愛する子供たちは、嬉しそうに話しかけ、足もとにじゃれつく子もいる。
 主はドイツ人にしては小柄ではあるが、あちこちで浮いた噂が絶えない。美しい夫人と子供たちがいてなお、よその女に手を出すこの主を、マルガレーテはあまり好きになれないでいる。
 とはいえそれが理由で恨むようなことはもちろんなく、雇ってもらっている恩があるのにも代わりはない。裏切る理由など、彼女には何ひとつないのだ。
 その光景を見、マルガレーテの良心が、久しぶりに軋んだ。


 政治や戦争のことは、正直よく分からない。日記の中身にちくいち考えを巡らせることもない。主とその周辺のひとびとが、具体的に何をし、何をしようとしているのかは、日記を読んでも明確には分からなかった。何にせよ政治とは、主をはじめ自分より頭のよい人たちが、よりよい方向に導いてくれる、そういうもののはずだと彼女は思う。自分は彼らのしようとしていることの正否を判じ、論ずる立場にはない、とも思っている。
 政府によるユダヤ人への対応は、日に日に厳しくなっている。彼女の生まれ故郷にもユダヤ人の一家はいたが――彼らはすでにこの国を出たというが――、みな気のよい人たちだった。それが本当に悪いものなのか、だから実はよく分からない。シナゴーグなどを襲った、いわゆる『水晶の夜』なども記憶に新しいが、いずれにせよそうした恐ろしい事件、それに戦争も、できれば起きてほしくはないというのが彼女の本音だ。
 だがこれらの動きは、疑問を抱くひまもないほど、すさまじい速度で進んで行ってしまっているように思う。精々、”世界をよりよくするためには必要なこともあるのかもしれない”などと自分を納得させるのがやっとだ。そしてそれがもし真実なら、あれは嫌だこれは怖いなどと言って喚くのは、幼子のわがままみたいなものだろう。
 あれこれ考えていては、生きてはいけない。それよりも今のマルガレーテの双肩には、両親の暮らしがかかっているのだ。なんであれ今この仕事を失うわけにはいかない。
 ナチ党が台頭しはじめた頃、彼女はまだ子供だったためよく分からなかったが、おそらく当時の人びとも、こんな風だったのだろう。長い不景気にみな疲弊し、不満を抱いていた。誰もその日その週を生きるのに必死だった。そこへはっきりした強い口調の演説、それにポスターなどで、分かりやすく進むべき道と倒すべき敵とを示してくれるものが現れ、国民はそれに飛びついた。そしてナチスは、実際に経済を回復させ、国民の生活を安定させてくれたのだ。
 この間ふかく考え、自分たちを客観的に顧みた人間は、どれだけいるだろう。
 その構図と、今のマルガレーテの状況は、ほとんど変わらないのだった。


 政府や軍高官の集まるこんな日は、絶好の諜報日和のようにも思えるが、あの男からの指示はない。いつものことだ。素人には危険すぎるとの判断か、きっと他にもっとよい情報ルートもあるのだろう。
 客人であるナチ党員たちを迎えたことで、使用人の夕食は少し遅くなった。
 その席では女たちが、今日の客の誰々は素敵だったなどと、ほんのり頬を染めて話している。
「……だけどあなたにはいい旦那さんがいるじゃない」
「あれは、だめよ。若い女に手を出して、ふらついてばかり」
「まじめすぎるよりいいわ」
「そうかしら。もっと慎ましくて堅実な男を選ぶべきだった。よりどりみどりだったのよ」
「そうね、あなたは綺麗だったわ。……」
 そんな会話に耳を傾けつつ、マルガレーテはふと、以前男が使った“かわいいマルガレーテグレートヒェン”という愛称を思い出した。
 もはやあまり一般的でないそれは、恋文を装うためだけでなく、暗号のために当てられたものでもあったが、彼女にはあまり縁起のよいものとは思えなかった。有名なゲーテの『ファウスト』、その登場人物を思い出すから。
――あれに出てくる“マルガレーテグレートヒェン”は、最後は一体どうなったのだったかしら?
 使用人仲間たちは、ぺちゃくちゃと話を続ける。
「だけどどうしても、悪い男に惹かれちゃってね。影のある男や、危険な感じのする男のほうが、魅力的じゃない」
「そう?」
「危険な恋ね。冒険だわ。私も、すてきだと思う。……そう思わない? マルガレーテ」
 突然話を振られ、マルガレーテは正直に答えた。
「私は……いやだわ。冒険なんて。だって、怖いもの」
「そうだった、この子は、まだねんねだった!」
 ひとりがちゃかすように言ったので、どっと笑い声があがった。
「ねえマルガレーテ、あなたは恋をしたことはないの?」隣のメイドが、心配そうに問うてくる。
「ないと思うわ」
「“思う”?」
「いいえ、ない」
「そう……残念ね」
 同情した顔でそう言われる。急に収まりの悪い心地がし、マルガレーテは、先に部屋に戻ることにする。
 寝際に、“マルガレーテ”の最期を思い出した。そして彼女は、愚かだと思った。“マルガレーテ”は、たしか罪を犯し、裁かれたのだ。悪魔に魂を売った、あんな危険な男ファウストを愛したばかりに。



 冬も押し迫る肌寒い午後。道行くひともまばらな通りで、ショウウィンドウで前髪を整える。
 少し離れた隣には、男が退屈そうに煙草を吸いながら、ちらちらと腕時計を見たりしている。あたかも知り合いを待っている風だ。街によく溶け込んだその風貌からは、年齢も人種すらも見て取れない。それがどれほど異常なことであるか、街ゆく者は誰ひとり気づかない。
「ほかに変わったことは?」そちらから聞こえるその声は、マルガレーテ以外には聞こえない――定めた相手にのみ届くよう指向性を高めた、特殊なしゃべり方だ。
 マルガレーテは、自然な動きで耳を触る。Neinノーの合図。
 男は最後にもう一度時計を見、軽くため息を吐く。煙草を落とす。さも“今日は約束をしていた知人と会うのを諦めた”という風だ。まもなく彼はごく自然にこの場を離れ、幽霊みたいに消えてしまうだろう。
 実家の借金は少しずつ、はたから見ても、そして当人たちからしても違和感がないほど、静かに、しかし着実に減ってきている。それが彼女の働きへの、彼からの対価なのだろう。とはいえ、峠は越えども完済にはまだ遠い。もしここで金が途絶えたら、ふたたび金策のために東奔西走しなければいけないことは、考えずとも目に見えている。
 だがふしぎなことに、マルガレーテは、自分でも理由はよく分からなかったが、なぜかもう――金はいらないような気がした。
 それを考えた瞬間、心臓を掴まれたかのように、息が詰まった。愕然として、思わずぱっと顔をあげる。立ち去ろうとする男の横顔が見えた。目があった。この状況で、彼女の動きは、見るからに不自然だった。取り繕うためか彼が「どうかなさいましたか」と声をかける。マルガレーテは、「いいえ」と繰り返すのが精いっぱいだった。
 最後に、離れゆく男の口元に、薄い微笑を見た気がした。それが表すものは、焦りでも当惑でもない。落胆、失望、躊躇、怒りでもない。もちろん悲観でもないだろう。
――『想定内』。
 マルガレーテは、自身のなかで起きていた全てを悟った。


 その晩少女は、ベッドのなかで密かに泣いた。
 自分が金の代わりに欲したもの、それは男の声であり、顔だちであり、本当の名前であり、生まれた国の名だった。
 それは最初に会った時から始まっていた。
 面と向かってそれらを欲さなかったのは、求めれば二度と会えなくなるのではと危惧したからだ。だから、しなかった。というより、怖くてできなかっただけだ。
”家族のため”、それだけでは決してない。少なからず自分のために祖国を売った女を、神は許すだろうか?
 これらも全て、計算のうちだったのだろうか。彼の瞳だけ深く印象づけられたのも――そうして彼女の心が“とらわれて”しまうように、彼が仕向けた。
 金と女の情、そのどちらが信用に足ると思うだろう。どちらもひとつでは弱いので、二重三重にして絡め取るようにしたのかもしれない。実際、今も彼に弱みを握られている事実はあり、それがかろうじて彼女の良心を救っている。どれだけ浮薄な欺瞞であったとしても、“家族のため”という口実さえあれば、自分は喜んで彼に協力するだろう。彼にとっては都合のよい駒のひとつにすぎないのだとしても。
 人はこんなにもおろかになる瞬間があるのかと、自分でも驚く。
 信じていたものが、一度に崩れ去ったような気分だった。
 とはいえ、夜も更け泣き疲れたころには、おおよそほぞも固まっていた。この感情は、今さらどうなるものでもないだろう。
 これでは、“マルガレーテグレートヒェン”よりずっと愚かではないか。彼女は自嘲する。
 何ひとつ素性の分からない、まともに触れたことすらない男のために、私はこの身を滅ぼすのかもしれない。




 それからひと月ほど経ったある日のことだった。
 少し前に起きた大規模な列車事故も収束し、世界情勢の混乱をぴりぴりと感じつつ、次の連絡を待ってひっそりと暮らしていた彼女の元に舞いこんだのは、一通の電報だった。
 それは実家から、「事業が急に上向きになったので、早く帰って来てほしい」という内容で、電話でも確認したが、すでに手がまわらず、母などは過労で倒れそうだという。
 だが、両親にそんな商才や能力、運のないことは、娘であるマルガレーテが一番よく分かっている。ずっと下り坂を転がり落ちるばかりだった家業が、こうも易々と回復するはずがない。
 何か非合法の手段でも用いたのではと疑われても仕方のないほど、不可思議な急伸だった。しかしその過程は、丁寧に調べれば調べるほど、誰かの意図が介入した痕跡はなく、単に奇跡的な幸運が、偶然かつ複雑に重なったに過ぎない、疑う余地などまるでない、起こるべくして起きた現象だと、納得せざるを得ない。そのように見えるものだった。こんなことを仕組める人間など、いるはずがない、と。
 けれどマルガレーテは、身をもって知っている。この世には、信じがたい能力を持った者が存在するのだ。
 とはいえ、実際に思いあたるのはひとりしかいない。となれば、それら一連の現象から導き出せる答えはひとつだった。理由は分からないが、とにかく自分は――いらなくなったらしい。
 朦々とした失意の中、マルガレーテはゲッベルス邸を後にした。


 帰ってみれば、想像以上の忙しさがそこにはあった。あれこれ考えを巡らす暇もなかったのは、彼女にとっては幸いだった。慌ただしい日常と、身に馴染んだ故郷の空気が、彼女の心を静かに癒やした。
 世界はいっそう暗い嵐に飲み込まれてゆくようだったが、彼女自身は耳目を閉ざすようにして過ごしていたし、田舎はそれでも比較的安穏としたものだった。
 そんな折たまたま目にすることになったのは、ゲシュタポが捕らえて吊るした敵国のスパイの死体だった。以前にもあった光景だろうが、それまでは恐ろしくて避けていたものだ。マルガレーテは、釘を何本も丸呑みさせられた思いがした。自分が荷担していたそれが、一体どのようなことだったのか、ようやく本当の意味で理解した瞬間だった。
 それにしてもあの頃は、何かが麻痺していたとしか思えない。雇用主の部屋に忍び込むなど、以前には到底考えられないことだった。それすらも彼の魔術によるものだったのだろうか。だとしても、自身に芽生えたその全てが嘘だったとは、思いたくはなかった。
 次第に冷静さを取りもどして、彼女はこう考えるようになった。
 あれだけ周到だった男だ。彼にしてもあのような、ともすれば疑惑を抱かれかねない急激な幕の引き方は、不本意だったのではないだろうか。だが恐らく彼――彼らには、何か急いでそうしなければならないような、焦眉の事態が起きたのだ。
 希望的観測にすぎないのかもしれない、そう自分を戒めつつも、それでどこか腑に落ちる感覚があったのだった。
 そうして彼女自身はさほど戦争の影を感じることのないまま、ドイツは敗戦を迎えた。


 姉については、のちにベルリン市街戦に巻き込まれて死んだとの報せがあった。一緒に暮らしていたのはユダヤ系ではなく、カトリックの友人だった。あらためて考えてみれば、そもそもあの噂も少々おかしかったことに気づける。一体どこからそんな噂が生じたものだろう。流れ流れて尾ひれがついたのだとしても、あまりにもおあつらえ向きなタイミングだった。
 ナチスによる蛮行の詳細を知ったのも、終戦のあとだった。ナチ高官や実際にそれに従事していた軍人の妻、家族ですら、それについて一切存ぜぬケースもあったそうなので、一市民である自分が知らなくても無理はない――というのは、単なるいい訳だと彼女自身は思う。色々な場所で、その兆候ははっきりと目にしていたのだ。見て見ぬふりをしたのも同然だった。人は弱い、現実にはどうすることもできなかった、それは事実だとしても――己を呪い、恥じ、悔やみ、悩んだ。いく度となく教会に足を運んだ。以前自分がどこで働いていたのか、とてもではないが、自分から言い出すことは困難だった。
 さまざまな罪の意識が彼女を苛み、数年に渡り暗鬱な日々を過ごすこととなった。
 そんななか偶然出会ったのは、思いがけずフランスの男性だった。当初は警戒し逃げ回っていたが、不器用で朴訥なアプローチに、次第に心の氷が解けた。裏も表もないような、穏やかな人だった。
 とはいえ結婚ともなれば、当人はよくとも、周りは必ずしも歓迎しない。彼の親類にはナチスドイツに知人や婚約者を殺された者もおり、ひどい罵倒を受けたのは一度や二度ではない。彼女も夫も、つらい思いすることはしばしばあった。
 それでも生きていけたのは、もちろんその彼と、一年後に生まれた子供の存在があったからだ。
 おまけにその子供は、濃い色の瞳を持って生まれた。もちろん“あの瞳”とは少し感じが違うが、それを見て時おり脳裏をよぎるのは、やはりあの男のことだった。
 くじけそうな時、その瞳を見れば、こんなことでめげていてはいけないというような気持ちになった。
 きっとあの頃の彼も、遠い異国の地でたったひとり、持てる全ての知恵と勇気を行使し、生き伸びようとしていたのだろう。
 窓辺で久しぶりに手にした手袋を見つめていたマルガレーテに、子供がふしぎそうな表情で近寄る。それをどうするのか訊かれたので、「大事にしまっておくのよ」と答えた。
 もう二度と会うことのないだろう彼の、最後に見た横顔の記憶と、今となっては恥ずかしいような、若すぎたあの頃の自分とに思いを馳せつつ、彼女はそれをそっと、再び引きだしの奥にしまった。