<最良>の条件

ジョーカーゲーム二次 『柩』の前
基本原作(年代とか)+アニメ要素
真木視点。※萌え要素無
 ドイツ北西部、オルデンブルク中央駅。
 プラットホームの上屋越しに見える空は、今日も白く重い。
 二十分後に到着する列車を待っていると、ふいにそばから、ごくか細い小さな声で歌が聞こえてきた。
「“Ich will meine Seele tauchen/In den Kelch der Lilie hinein”...」
 いつからそこにいたのだろう。サキソニー地の厚いコートをまとった少女が、ちいさなじぶんの旅行鞄を地べたに置き、椅子がわりに腰かけている。
 知らぬ間に個人的な空間に入られるなど、本来あってはならないことだ。だが子供は特に邪気がなく、行動も予測しづらい、ある程度仕方ない部分はある。そう割り切り、ことさらに警戒すべき状況でもないものの、真木はあらためてその存在を、意識の上に置き据える。
 少女は白い息を吐きながら歌を続けていたが、
「...“Im Rhein, im heiligen Strome(ライン川の きよらなる流れに), ... Mit seinem großen Dome(大きなる聖堂そびゆる)”……」
 と、ここできゅうに途切れてしまった。
 しばらく口を結び、じっと虚空を見つめたのち、おずおずと窺うようにこちらに目線をあげて、
「ねえあなた、このつづき知ってる?」
 すでに彼女が真木の存在を認識し、意識に入れていることは察知していた。だが、こうも気軽くことばをかけられるとは思わない。
「……“Das große, heilige Cöln(偉大にて 神聖なる ケルン)”?」
 こちらも小さな声で答えて“しまった”。
 すると、彼女のぷくりとした双頬に、にわかに紅い花びらが散る。
「そうだわ、“Das große(偉大)”。ど忘れしちゃったの。その次は……」
「――“Im Dom”……“Im Dom, da steht ein”...」
「“ein Bildnis”! ありがとう。これで歌えると思うわ」
 弾んだ声でそう言って、また今にもかき消えそうな声で、続きを歌い出した。
――『詩人の恋DICHTERLIEBE』。ハインリヒ・ハイネの詩に、ロベルト・シューマンがピアノ曲をつけたもの。全十六曲からなる歌曲集クンストリーダー
 しかし、元々ユダヤ人家庭の生まれであるハイネの作品は、一九三三年にヒトラーが権力を握って以降、“非ドイツ的”であるとして焚書・排斥の対象となっているはずだ。
 いま歌っていた六番目の曲を終えて、少女は再び、くりくりとした睛を真木に向け尋ねた。
「ねえ、あなたはどうしてこの詩を覚えてるの?」
 真木は肩をすくめる。「さあ。……きっとどこかで読んだんだろう」
「“どこかで読んだ”、それだけで覚えていられるもの? 私は何度も聴いて、読んで、覚えたのに」
 いぶかしがる少女に、真木は遅れて、答えの選択にすこし誤ったことを覚る。本当のことを言ってどうする――D機関のスパイなら、一度見ただけのものを記憶に留められて当然なのだが。まさか子供に足をすくわれるとは――。自嘲したいのを抑えつつ、少し頭を巡らせる。「ここだけの話、じつはハイネのファンなんだ」とでも言おうか。有名な作家なら古今東西、作品の数節からそれ以上――当座しのぎには充分すぎるほど――、諳んじられるようにはしてある。状況によっては、役に立つから。
 しかし少女相手に、本気で目くらましを企てる必要はなかった。もとより確かな答えなど求めてはいなかったのだろう。
「ねえ、ケルンって、行ったことがある?」
「なぜ?」
「詩に出てきたでしょ?」
 少女はどこか誇らしげに、アドルフという名の兄が、今日ケルンに行くのだと息を弾ませた。
 そのことばには、小さな疑問符が生じる。ホーム上のすこし先、キオスク前の一行は、たぶん少女の家族だろうと目星をつけていた。顔貌がところどころ似ている。服装や所持品から見える経済状況や嗜好も一致する。母親と思しき女性と、おそらく祖父だろう年配男性、そして少女よりじゃっかん年上に見える少年。
 あそこにいるのが、君の兄さんじゃないのかと問うてみると、
「あれはパウル、双子の弟よ。なのに私よりずっと大きいし、顔も大人っぽいでしょ、腹が立つわ。……ねえ、あれが私の家族だって、どうして分かったの?」
 そう尋ねながらも、結局また真木が答えるのを待たず、少女はお喋りをつづけた。親戚を訪ね家族でオルデンブルクに来たが、長兄のアドルフは学校があるためベルリンに残っていること。しかし彼は、模型飛行機の気流についての研究で『優』を取ったので、その発表のため、折悪く今日入れ違いにケルンへと向かうこと。
「もしアドルフが乗った列車が見えたら、手を振ろうと思うの。窓から見えるかしら?」
 君が幸運なら、きっと。などと適当な相槌を打ちながら、真木は思量する。




 先刻、にぎわいを見せる酒場で、席を探すそぶりをしながら、目当ての人物を探した。
 よれよれのジャケットで、すっかり酔いつぶれたようすの男性客、そのすぐ後ろに真木は座った。ややあってその男性が、おもむろに立ったのが分かった。周りの誰ひとり、彼に気を取られてはいなかった。いずれその人は、影のように、店の奥のドア向こうに消えた。
 折を見て、真木もそれを追った。
 ドアの奥は接続用の小スペース、左手にはおそらく住居部へとつながるドア。さきほど男の姿はすでになく、しかし何も住居部そちらに行ったわけではないだろう――。二秒ほど正面の壁を見つめた真木は、そっとしゃがんで、その下部の床とのつなぎ目のあたりを押した。案の定、床がぱかりと開き、半地下への踏段が現れた。
 下階は、意外なほどしっかりした作りで、正直おもての酒場とは、似ても似つかない。広さはないが、ちょっとした邸の応接間のよう。対面に配置されたソファの間の卓には、まだ白い湯気が上る紅茶のカップが二つ用意されていた。協力者――おおかた、ここの持ち主だろう。ここに来るまでには誰とも会っていないので、別の出入り口も存在していると推測できた。そもそも“あの人”が、いざという時の脱出口だっしゅつこうなしで、このような地下フロアを密会場所に選ぶとは思えなかった。
 孤灯が照らすのみの、うす暗い室内、そのあちこちに落ちた深い影のひとつが、ぬっと黒いもやのように動いた。
「お久しぶりです」と真木。
 杖をつき、右手には白い手袋、痩身を包むのは地味だが仕立てのよい背広。もちろん、酔ってはいない。着替えたわけでもない。そう見せていただけだ。
 まったく、この人にはまだまだ叶わない。
 そう思いつつ、真木はさっそく今次の要訣へと移った。
 手渡した書類は、一見問い合わせのあった美術品に関する調査報告であったり、売買に関する事務的内容しか書かれていないものである。しかし彼――結城中佐は、ざっと目を通しただけで、すぐに小さくうなずいた。
 これにて真木に課せられた任務は、いったん終了だ。次の命令はまだ受けていなかった。だが、年単位に及ぶ任務で得た一切の情報を、ひとまず全部まとめてここへきた。不要な情報ものは完全に破棄した。ローゼン通りの部屋には、あえて撒いたタルカム・パウダーや、落としておいたアスピリン以外、まさに塵ひとつ残っていない。――
 過日、ついに米国に対し、干戈を動かす旨が、本国の上層部で決定されたとのことだ。
 諜報活動は、戦時においては平時ほど役には立たない。だとしても、日本は今後も、欧米各国から目を離すべきではない。特におととし、ソ連に対し共通の認識があったはずのドイツが、突然そのソ連と不可侵条約を結んだこと――現状、すでにドイツからの侵攻によりそれは無に帰したが――や、またソ連とは日本との地理的なものをも鑑み、この二国は慎重に注視しつづけるべきだと言えた。
 いずれにせよ、それには自分がすでにドイツ内に張り巡らせた、細緻なスパイ網を活用できる。ドイツ側からソ連側の動向をうかがうということも可能だ。
 そうして命がけで得た情報も、けっきょくは軍内で握りつぶされるとしても――敗戦は免れぬとしても――やらないよりはましだ。
 中佐は「戻れ」とは言わなかった。だが、「やれ」「残れ」と命ずることもなかった。ただ、薄く笑って、「どうする」とだけ。
 真木が答えるより早く、あと数日は自分も欧州に留まる旨を付言した。
 それまでに答えを出せということだろう。



 少女のおしゃべりが急に止まった。母親が呼んだのだ。そろそろ汽車が到着する。
 やおらに立ちあがって少女は、「あなたは一等車なのね。私たちは二等車。あなたもベルリンまで行くのなら、降りる時にきっとまた会えるよね」
 またね、と手を振り、去ってゆく。
 間もなく列車がホームへと入ってきた。
 ヴィルヘルムスハーフェン発、ベルリン行き。ここオルデンブルクののち、ブレーメンやユルツェン等を経由、夕刻前には首都に到着する予定だ。
 いまにも泣きだしそうだった曇天から、ついにぱらぱらと小雪が降り始める。
 窓際の座席に着いてから真木は、少女が歌っていたリーダーの、最後の曲の詩を思い出していた。

……古き 邪悪なる歌を
忌ましき 不徳なる夢を
いまこそ葬らん
大きなる『柩』を 持て来よ……

“スパイにとって死は最悪の選択肢”。それはもちろん大前提だ。
 しかし、それはともかく、なぜだかごく自然に浮かんでくる。

……君は知りきや 何ぞこの柩が
かくも大きにて重たきか……

 出発の笛の音とともに、汽車がゆっくりと動き始める。
 窓の外に流れ出すホーム上の景色。見送りなどで、いくらか人が残っているその中に、ふと、見知った影を見た気がした。
 真黒い影。魔王、あるいは死神のような――。
 どの汽車に乗るとまでは告げていない、だがあの人なら、言わずとも推知するだろう。まさか送りにきたのかと、思ったのはほんの一瞬で、しかしあり得ない。そんな必要は微塵もないからだ。当然ながら、それは刹那の幻だった。
 影が消え、交互して真木の中に生じたのは、何か腑に落ちる感覚。
「どうする」の答えではない。
 たくさんの情報を集められることだけが、良いスパイの条件ではない――それは言を俟たぬとしても、そのために派手に動き回り、人を殺し、注目を集め、疑われ、あまつさえ不自然な死を遂げでもするならば、それは最悪のスパイだと言える。最良のスパイとは、どんな事態に陥ろうとも、一切あとを濁さぬ者のことだ。出来うるかぎりの情報を集め、それを秘密裡に本国へ送ったのちには、いかなる足跡も残さない。全ての協力者と、そして結城中佐へ繋がり得るもの、手がかりになるものは、一糸一毫も溢してはおかない。
「どうする」にしても――畢竟、残るのは、ただそれだけなのだ。

……君は知りきや 何ぞこの柩が
かくも大きにて重たきか――

 あとに続く最後の一文を、すこし改変し胸臆で読んだ。

――Ich senkt' auch "meine Geheimnisse" hinein.(“わが密か事”も ともに 入れつ故に)

 発車から幾ばくもなく、外は激しい吹雪へと変わる。
 ガラス越しに描き出される、白のレジメンタルを見つめつつ真木は、その唯一の“条件”を、心にきざむ。